き》に淺井氏を訪《と》うた時は、平八郎さんは不在であつたが、後にわたくしの事を外祖母《ぐわいそぼ》に聞いて、今眞志屋の祖先の遺物や文書《もんじよ》をわたくしに見せに來たのである。
 遺物も文書も、淺井氏に現存してゐるものゝ一部分に過ぎない。しかし其遺物には頗る珍奇なるものがあり、其文書には種々の新事實の證となすべきものがある。壽阿彌研究の道は幾度《いくたび》か窮まらむとして、又幾度か通ずるのである。八百屋お七の手づから縫つた袱紗《ふくさ》は、六十三年前の嘉永六年に壽阿彌が手から山崎美成の手にわたされた如くに、今平八郎さんの手からわたくしの手にわたされた。水戸家の用達眞志屋十餘代の繼承次第は殆ど脱漏なくわたくしの目の前に展開せられた。

     十八

 わたくしは姑《しばら》く淺井氏所藏の文書を眞志屋文書と名づける。眞志屋文書に徴するに眞志屋の祖先は威公頼房が水戸城に入つた時に共に立つてゐる。文化二年に武公|治紀《はるとし》が家督して、四年九月九日に十代目眞志屋五郎兵衞が先祖書を差し出した。「先祖儀御入國の砌《みぎり》御供仕來元和年中引續」云々《うんぬん》と書してある。入國とは頼房が慶長十四年に水戸城に入つたことを指すのである。此眞志屋始祖西村氏は參河《みかは》の人で、過去帳に據ると、淺譽日水信士と法諡《ほふし》し、元和二年正月三日に歿した。屋號は眞志屋でなかつたが、名は既に五郎兵衞であつた。
 二代は方譽清西信士で、寛永十九年九月十八日に歿した。後の數代の法諡の例を以て推すに、清西は生前に命じた名であらう。
 三代は相譽清傳信士で、寛文四年九月二十二日に歿した。水戸家は既に義公光圀の世になつてゐる。
 四代は西村清休居士である。清休の時、元祿三年に光圀は致仕し、肅公綱條が家を繼いだ。
 此《この》代替《だいがはり》に先《さきだ》つて、清休の家は大いなる事件に遭遇した。眞志屋の遺物の中に寫本西山遺事並附録三卷があつて、其附録の末一枚の表に「文政五年|壬午《みづのえうま》秋八月、眞志屋五郎作秋邦謹書」と署した漢文の書後がある。其中にかう云つてある。「嗚呼家先清休君《あゝかせんせいきうくん》、得知於公深《こうにしらるゝのふかきをえて》、身庶人而俸賜三百石《みしよじんにしてほうさんびやくこくをたまひ》、位列參政之後《くらゐはさんせいののちにれつす》」と云つてある。公は西山公を謂ふのである。
 此俸祿の事は先祖書の方には、側女中《そばぢよちゆう》島を娶《めと》つた次の代廓清が受けたことにしてある。「乍恐《おそれながら》御西山君樣御代|御側向《おんそばむき》御召抱お島|之御方《のおんかた》と被申候《まうされそろ》を妻に被下置《くだしおかれ》厚き奉蒙御重恩候而《ごぢゆうおんをかうむりたてまつりそろて》、年々御米百俵|宛《づゝ》三季に享保年中迄頂戴仕來冥加至極難有仕合《きやうはうねんちゆうまでちやうだいつかまつりきたりみやうがしごくありがたきしあはせ》に奉存候《ぞんじたてまつりそろ》」と云つてある。しかし清休がためには、島は子婦《よめ》である。光圀は清休をして島を子婦として迎へしめ、俸祿を與へたのであらう。
 八百屋お七の幼馴染《をさななじみ》で、後に眞志屋祖先の許《もと》に嫁した島の事は海録に見えてゐる。お七が袱紗を縫つて島に贈つたのは、島がお屋敷奉公に出る時の餞別《せんべつ》であつたと云ふことも、同書に見えてゐる。しかし水戸家から下《さが》つて眞志屋の祖先の許に嫁した疑問の女が即ち此島であつたことは、わたくしは知らなかつた。島の奉公に出た屋敷が即ち水戸家であつたことは、わたくしは知らなかつた。眞志屋文書を見るに及んで、わたくしは落胤問題と八百屋お七の事とが倶《とも》に島、其岳父、其夫の三人の上に輳《あつま》り來《きた》るのに驚いた。わたくしは三人と云つた。しかし或は一人と云つても不可なることが無からう。其中心人物は島である。
 眞志屋の祖先と共に、水戸家の用達を勤めた河内屋《かはちや》と云ふものがある。眞志屋の祖先が代々五郎兵衞と云つたと同じく、河内屋は代々半兵衞と云つた。眞志屋の家説には、寛文の頃であつたかと云つてあるが、當時の半兵衞に一人の美しい女《むすめ》が生れて、名を島と云つた。島は後に父の出入屋敷なる水戸家へ女中に上ることになつた。

     十九

 河内屋は本郷森川宿に地所を持つてゐた。それを借りて住んでゐる八百屋市左衞門にも、亦一人の美しい女《むすめ》があつて、名を七と云つた。七は島よりは年下であつたであらう。島が水戸家へ奉公に上る時、餞別に手づから袱紗を縫つて贈つた。表は緋縮緬《ひぢりめん》、裏は紅絹《もみ》であつた。
 島が小石川の御殿に上つてから間もなく、森川宿の八百屋が類燒した。此火災のために市左衞門等は駒込
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