時眞志屋の先祖が御用達《ごようたし》をいたしてゐますので、内々お許を戴《いたゞ》いて死骸《しがい》を引き取りました。そして自分の菩提所《ぼだいしよ》で葬《とぶらひ》をいたして進ぜたのだと申します。」
 わたくしは落胤問題、屋號の縁起、藤井紋太夫の遺骸の埋葬、此等の事件に、彼の海録に載せてある八百屋《やほや》お七の話をも考へ合せて見た。
 水戸家の初代|威公頼房《ゐこうよりふさ》は慶長十四年に水戸城を賜はつて、寛文元年に薨《こう》じた。二代|義公光圀《ぎこうみつくに》は元祿三年に致仕し、十三年に薨じた。三代|肅公綱條《しゆくこうつなえだ》は享保三年に薨じた。
 海録に據れば、八百屋お七の地主河内屋の女《むすめ》島は眞志屋の祖先の許《もと》へ嫁入して、其時お七のくれた袱帛《ふくさ》を持つて來た。河内屋も眞志屋の祖先も水戸家の用達であつた。お七の刑死せられたのは天和三年三月二十八日である。即ち義公の世の事で、眞志屋の祖先は當時既に水戸家の用達であつた。只眞志屋の屋號が何年から附けられたかは不明である。
 藤井紋太夫の手討になつたのは、元祿七年十一月二十三日ださうで、諸書に傳ふる所と、昌林院の記載とが符合してゐる。これは肅公の世の事で、義公は隱居の身分で藤井を誅《ちゆう》したのである。
 此等の事實より推窮すれば、落胤問題や屋號の由來は威公の時代より遲れてはをらぬらしく、餘程古い事である。始て眞志屋と號した祖先某は、威公|若《もし》くは義公の胤《たね》であつたかも知れない。

     十七

 わたくしは以上の事實の斷片を湊合《そうがふ》して、姑《しばら》く下《しも》の如くに推測した。水戸の威公若くは義公の世に、江戸の商家の女《むすめ》が水戸家に仕へて、殿樣の胤を舍《やど》して下げられた。此女の生んだ子は商人になつた。此商人の家は水戸家の用達で、眞志屋と號した。しかし用達になつたのと、落胤問題との孰《いづ》れが先と云ふことは不明である。その後代々の眞志屋は水戸家の特別保護の下にある。壽阿彌の五郎作は此眞志屋の後である。
 わたくしの師岡の未亡人石に問ふべき事は、只一つ殘つた。それは力士谷の音の事である。
 石は問はれてかう答へた。「それは可笑《をか》しな事なのでございます。好くは存じませんが其お相撲《すまふ》は眞志屋の出入であつたとかで、それが亡くなつた時、何のことわりもなしに昌林院の墓所にいけてしまつたのださうでございます。幾ら贔屓《ひいき》だつたと云つたつて、死骸《しがい》まで持つて來るのはひどいと云つて、こちらからは掛け合つたが、色々談判した擧句《あげく》に、一旦《いつたん》いけてしまつたものなら爲方《しかた》が無いと云ふことになつたと、夫が話したことがございます。」石は關口と云ふ後裔《こうえい》の名をだに知らぬのであつた。
 餘り長座をするもいかゞと思つて、わたくしは辭し去らむとしたが、ふと壽阿彌の連歌師であつたことに就いて、石が何か聞いてゐはせぬかと思つた。武鑑には數年間日輪寺其阿と壽阿曇※[#「大/周」、第3水準1−15−73]とが列記せられてゐて、しかも壽阿の住所は日輪寺方だとしてある。わたくしは是より先、淺草芝崎町の日輪寺に往つて見た。一つには壽阿彌の同僚であつた其阿の墓石を尋ねようと思ひ、二つには日輪寺其阿の名が一代には限らぬらしく、古く物に見えてゐるので、それを確めようと思つたからである。日輪寺は今の淺草公園の活動寫眞館の西で、昔は東南共に街《まち》に面した角地面であつた。今は薪屋の横町の衝當《つきあたり》になつてゐる。寺内の墓地は半ば水に浸されて沮洳《しよじよ》の地となり、藺《ゐ》を生じ芹《せり》を生じてゐる。わたくしは墓を檢することを得ずして還つた。わたくしは石に問うた。「若し日輪寺と云ふ寺の名をお聞きになつたことはありませんか。」
「存じてをります。日輪寺は壽阿彌さんの縁故のあるお寺ださうで、壽阿彌さんの御位牌が置いてありました。しかし昌林院の方にあれば、あちらには無くても好いと云ふことになりまして、只今は何もございません。」
 わたくしはお石さんに暇乞《いとまごひ》をして、小間物屋の帳場を辭した。小間物屋は牛込|肴町《さかなまち》で當主を淺井平八郎さんと云ふ。初め石は師岡久次郎に嫁して一人女《ひとりむすめ》京を生んだ。京は會津東山の人淺井善藏に嫁した。善藏の女おせいさんが婿《むこ》平八郎を迎へた。おせいさんは即ち子を負《おぶ》つて門に立つてゐたお上さんである。
 壽阿彌の事は舊に依つて暗黒の中にある。しかしわたくしは伊澤の刀自や師岡の未亡人の如き長壽の人を識ることを得て、幾分か諸書の誤謬《ごびう》を正すことを得たのを喜んだ。
 わたくしは再び此稿を畢《をは》らむとした。そこへ平八郎さんが尋ねて來た。前《さ
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