たので、石は其《その》齡《よはひ》を記憶しない。しかし夫よりは餘程の年上であつたらしいと云ふ。兎に角齡の懸隔は小さからう筈が無い。彼の文政十一年に既に川上宗壽の茶技を評した人は、師岡に比して大いに長じてゐなくてはならない。わたくしは石の言を聞いて、所謂《いはゆる》愚姪は山崎の方であらうかと思つた。
 若し此推測が當つてゐるとすると、伊澤の刀自の記憶してゐる蒔繪師は、均《ひと》しく是《こ》れ壽阿彌の妹の子ではあつても、手紙の中の「愚姪」とは別人でなくてはならない。何故と云ふに石の言《こと》に從へば、蒔繪をしたのは鈴木と師岡とで、山崎は蒔繪をしなかつたさうだからである。
 蒔繪は初め鈴木が修行したさうである。幕府の蒔繪師に新銀町《しんしろかねちやう》と皆川町との鈴木がある。此兩家と氏《うぢ》を同じうしてゐるのは、或は故あることかと思ふが、今|遽《にはか》に尋ねることは出來ない。次で師岡は兄に此技を學んだ。伊澤の刀自の記憶してゐるすゐさいの號は、鈴木か師岡か不明である。しかしすゐさいの名は石の曾《かつ》て聞かぬ名だと云ふから、恐くは兄鈴木の方の號であらう。
 然らば壽阿彌の終焉《しゆうえん》の家は誰の家であつたか。これはどうも師岡の家であつたらしい。「伯父さんは内で亡くなつた」と、石の夫は云つてゐたさうだからである。
 此《かく》の如くに考へて見ると、壽阿彌の手紙にある「愚姪」、伊澤|榛軒《しんけん》のために櫛に蒔繪をしたすゐさい、壽阿彌を家に居《お》いて生を終らしめた戸主の三人を、山崎、鈴木、師岡の三兄弟で分擔することゝなる。わたくしは此まで考へた時事の奇なるに驚かざるを得なかつた。
 初めわたくしは壽阿彌の手紙を讀んだ時、所謂「愚姪」の女であるべきことを疑はなかつた。俗にをひを甥《せい》と書し、めひを姪《てつ》と書するからである。しかし石に聞く所に據るに、壽阿彌を小父と呼ぶべき女は一人も無かつたらしいのである。
 爾雅《じが》に「男子謂姉妹之子爲出、女子謂姉妹之子爲姪」と云つてある。甥の字はこれに反して頗る多義である。姪は素《もと》女子の謂ふ所であつても、公羊傳《くやうでん》の舅出《きうしゆつ》の語が廣く行はれぬので、漢學者はをひを姪《てつ》と書する。そこで奚疑塾《けいぎじゆく》に學んだ壽阿彌は甥と書せずして姪と書したものと見える。此に至つてわたくしは既に新聞紙に刊した文の不用意を悔いた。
 わたくしは石に夫の家の當時の所在を問うた。「わたくしが片附いて參つた時からは始終只今の山伏町の邊にをりました。其頃は組屋敷と申しました」と、石は云ふ。組屋敷とは黒鍬組《くろくはぐみ》の屋敷であらうか。伊澤の刀自が父と共に尋ねた家は、菊屋橋附近であつたと云ふから、稍《やゝ》離れ過ぎてゐる。師岡氏は弘化頃に菊屋橋附近にゐて、石の嫁して行く文久前に、山伏町邊に遷《うつ》つたのではなからうか。
 わたくしの石に問ふべき事は未だ盡きない。落胤問題がある。藤井紋太夫の事がある。谷の音の事がある。

     十六

 わたくしは師岡の未亡人石に問うた。「壽阿彌さんが水戸樣の落胤《おとしだね》だと云ふ噂《うはさ》があつたさうですが、若しあなたのお耳に入つてゐはしませんか。」
 石は答へた。「水戸樣の落胤と云ふ話は、わたくしも承はつてゐます。しかしそれは壽阿彌さんの事ではありません。いつ頃だか知りませんが、なんでも壽阿彌さんの先祖の事でございます。水戸樣のお屋敷へ御奉公に出てゐた女《むすめ》に、お上のお手が附いて姙娠しました。お屋敷ではその女をお下げになる時、男の子が生れたら申し出るやうにと云ふことでございました。丁度生れたのが男の子でございましたので申し出ました。すると五歳になつたら連れて參るやうにと申す事でございました。それから五歳になりましたので連れて出ました。其子は別間に呼ばれました。そしてお前は侍になりたいか、町人になりたいかと云ふお尋がございました。子供はなんの氣なしに町人になりたうございますと申しました。それで別に御用は無いと云ふことになつて下げられたさうでございます。なんでも眞志屋と云ふ屋號は其後始て附けたもので、大名よりは増屋だと云ふ意《こゝろ》であつたとか申すことでございます。その水戸樣のお胤《たね》の人は若くて亡くなりましたが、血筋は壽阿彌さんまで續いてゐるのだと、承りました。」
 此《この》言《こと》に從へば、眞志屋は數世續いた家で、落胤問題と屋號の縁起とは其祖先の世に歸著する。
 次にわたくしは藤井紋太夫の墓が何故に眞志屋の墓地にあるかを問うた。
 石は答へた。「あれは別に深い仔細のある事ではないさうでございます。藤井紋太夫は水戸樣のお手討ちになりました。所が親戚のものは憚《はゞかり》があつて葬式をいたすことが出來ませんでした。其
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