あるから、縁故があるに相違なからうとの事であつた。
 わたくしは延《ひ》かれて位牌の前に往つた。壽阿彌の位牌には、中央に東陽院壽阿彌陀佛曇※[#「大/周」、第3水準1−15−73]和尚、嘉永元年|戊申《ぼしん》八月二十九日と書し、左右に戒譽西村清常居士、文政三年|庚寅《かういん》十二月十二日、松壽院妙眞日實信女、文化十二年|乙亥《おつがい》正月十七日と書してある。
 僧は「こちらが谷の音です」と云つて、隣の位牌を指さした。神譽行義居士、明治二十一年十二月二日と書してある。
「藤井紋太夫のもありますか」と、わたくしは問うた。
「紋太夫の位牌はありません。誰も參詣《さんけい》するものがないのです。しかしこちらに戒名が書き附けてあります。」かう云つて紙牌を示した。光含院孤峯心了居士、元祿七年|甲戌《かふじゆつ》十一月二十三日と書してある。
「では壽阿彌と谷の音とは參詣するものがあるのですね」と、わたくしは問うた。
「あります。壽阿彌の方へは牛込の藁店《わらだな》からお婆あさんが命日毎に參られます。谷の音の方へは、當主の關口文藏さんが福島にをられますので、代參に本所緑町の關重兵衞さんが來られます。」

     十四

 命日毎に壽阿彌の墓に詣《まう》でるお婆あさんは何人《なんぴと》であらう。わたくしの胸中には壽阿彌研究上に活きた第二の典據を得る望が萌《きざ》した。そこで僧には卒塔婆《そとば》を壽阿彌の墓に建てることを頼んで置いて、わたくしは藁店の家を尋ねることにした。
「藁店の角店《かどみせ》で小間物屋ですから、すぐにわかります」と、僧が教へた。
 小間物屋はすぐにわかつた。立派な手廣な角店で、五彩目を奪ふ頭飾《かみかざり》の類が陳《なら》べてある。店頭には、雨の盛に降つてゐるにも拘《かゝは》らず、蛇目傘《じやのめがさ》をさし、塗足駄《ぬりあしだ》を穿《は》いた客が引きも切らず出入してゐる。腰を掛けて飾を選んでゐる客もある。皆美しく粧つた少女のみである。客に應接してゐるのは、紺の前掛をした大勢の若い者である。
 若い者はわたくしの店に入るのを見て、「入らつしやい」の聲を發することを躊躇《ちうちよ》した。
 わたくしも亦忙しげな人々を見て、無用の間話頭を作《な》すを憚《はゞか》らざることを得なかつた。
 わたくしは若い丸髷《まるまげ》のお上《かみ》さんが、子を負《おぶ》つて門《かど》に立つてゐるのを顧みた。
「それ、雨こん/\が降つてゐます」などゝ、お上さんは背中の子を賺《すか》してゐる。
「ちよつと物をお尋ね申します」と云つて、わたくしはお上さんに來意を述べた。
 お上さんは怪訝《くわいが》の目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて聞いてゐた。そしてわたくしの語を解せざること良《やゝ》久しかつた。無理は無い。此《かく》の如き熱閙場裏《ねつたうぢやうり》に此の如き間言語《かんげんぎよ》を弄《ろう》してゐるのだから。
 わたくしが反復して説くに及んで、白い狹い額の奧に、理解の薄明がさした。そしてお上さんは覺えず破顏一笑した。
「あゝ。さうですか。ではあの小石川のお墓にまゐるお婆あさんをお尋なさいますのですね。」
「さうです。さうです。」わたくしは喜《よろこび》禁ずべからざるものがあつた。丁度外交官が談判中に相手をして自己の某主張に首肯せしめた刹那のやうに。
 お上さんは纖《ほそ》い指尖《ゆびさき》を上框《あがりがまち》に衝《つ》いて足駄を脱いだ。そして背中の子を賺《すか》しつゝ、帳場の奧に躱《かく》れた。
 代つて現れたのは白髮を切つて撫附《なでつけ》にした媼《おうな》である。「どうぞこちらへ」と云つて、わたくしを揮《さしまね》いた。わたくしは媼と帳場格子《ちやうばがうし》の傍《そば》に對坐した。
 媼《おうな》名は石《いし》、高野氏、御家人の女《むすめ》である。弘化三年生で、大正五年には七十一歳になつてゐる。少《わか》うして御家人|師岡《もろをか》久次郎に嫁した。久次郎には二人の兄があつた。長を山崎某と云ひ、仲を鈴木某と云つて、師岡氏は其《その》季《き》であつた。三人は同腹の子で、皆|伯父《をぢ》に御家人の株を買つて貰つた。それは商賈《しやうこ》であつた伯父の産業の衰へた日の事であつた。
 伯父とは誰《た》ぞ。壽阿彌である。兄弟三人を生んだ母とは誰ぞ。壽阿彌の妹である。

     十五

 壽阿彌の手紙に「愚姪《ぐてつ》」と書してあるのは、山崎、鈴木、師岡の三兄弟中の一人でなくてはならない。それが師岡でなかつたことは明白である。お石さんは夫が生きてゐると大正五年に八十二歳になる筈であつたと云ふ。師岡は天保六年生で、手紙の書かれたのは師岡未生前七年の文政十一年だからである。
 山崎、鈴木の二人は石が嫁した時皆歿してゐ
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