、壽阿彌が火事に遭《あ》つて丸燒になつた時、水戸家は十分の保護《はうご》を加へたらしい。それゆゑ壽阿彌は再び火事に遭つて、重ねて救を水戸家に仰ぐことを憚《はゞ》かつたのである。これは水戸家の一の用達に對する處置としては、或は稍《やゝ》厚きに過ぎたものと見るべきではなからうか。
 且壽阿彌の經歴には、有力者の渥《あつ》き庇保《ひはう》の下《もと》に立つてゐたのではなからうかと思はれる節が、用達問題以外にもある。久しく連歌師の職に居つたのなどもさうである。啻《たゞ》に其職に居つたと云ふのみではない。わたくしは壽阿彌が曇※[#「大/周」、第3水準1−15−73]《どんてう》と號したのは、芝居好であつたので、緞帳《どんちやう》の音に似た文字を選んだものだらうと云ふことを推する。然るに此號が立派に公儀に通つて、年久しく武鑑の上に赫《かゞや》いてゐたのである。
 次に澀江保さんに聞く所に依るに、壽阿彌は社會一般から始終一種の尊敬を受けてゐて、誰も蔭で「壽阿彌が」云々《しか/″\》したなどと云ふものはなく、必ず「壽阿彌さんが」と云つたものださうである。これも亦仔細のありさうな事である。
 次に壽阿彌は微官とは云ひながら公儀の務をしてゐて、頻繁に劇場に出入し、俳優と親しく交り、種々の奇行があつても、曾《かつ》て咎《とがめ》を被《かうむ》つたことを聞かない。これも其類例が少からう。
 此等の不思議の背後には、一の巷説があつて流布せられてゐた。それは壽阿彌は水戸侯の落胤《らくいん》ださうだと云ふのであつた。此巷説は保さんも母五百に聞いてゐる。伊澤の刀自も知つてゐる。當時の社會に於ては所謂公然の祕密の如きものであつたらしい。「なんでも卑しい女に水戸樣のお手が附いて下げられたことがあるのださうでございます。菓子店を出した時、大名よりは増屋《ましや》だと云ふ意《こゝろ》で屋號を附けたと聞いてゐます」と、刀自は云ふ。
 わたくしはこれに關して何の判斷を下すことも出來ない。しかし眞志屋と云ふ屋號の異樣なのには、わたくしは初より心附いてゐた。そして刀自の言《こと》を聞いた時、なるほどさうかと頷《うなづ》かざることを得なかつた。兎《と》に角《かく》眞志屋と云ふ屋號は、何か特別な意義を有してゐるらしい。只その水戸家に奉公してゐたと云ふ女は必ずしも壽阿彌の母であつたとは云はれない。其女は壽阿彌の母ではなくて、壽阿彌の祖先の母であつたかも知れない。海録に據れば、眞志屋は數代菓子商で、水戸家の用達をしてゐたらしい。隨つて落胤問題も壽阿彌の祖先の身の上に歸著するかも知れない。
 若し然らずして、嘉永元年に八十歳で歿した壽阿彌自身が、彼《かの》疑問の女の胎内に舍《やど》つてゐたとすると、壽阿彌の父は明和五六年の交に於ける水戸家の當主でなくてはならない。即ち水戸參議|治保《はるもり》でなくてはならない。

     十三

 わたくしは壽阿彌の手紙と題する此文を草して將《まさ》に稿を畢《をは》らむとした。然るに何となく心に慊《あきたら》ぬ節《ふし》があつた。何事かは知らぬが、當《まさ》に做《な》すべくして做さざる所のものがあつて存する如くであつた。わたくしは前段の末に一の終の字を記すことを猶與《いうよ》した。
 そしてわたくしはかう思惟《しゆゐ》した。わたくしは壽阿彌の墓の所在を知つてゐる。然るに未《いま》だ曾《かつ》て往《ゆ》いて訪《とぶら》はない。數《しば/\》其名を筆にして、其文に由つて其人に親みつゝ、程近き所にある墓を尋ぬることを怠つてゐるのは、遺憾とすべきである。兎に角一たび往つて見ようと云ふのである。
 雨の日である。わたくしは意を決して車を命じた。そして小石川傳通院の門外にある昌林院《しやうりんゐん》へ往つた。
 住持の僧は來意を聞いて答へた。昌林院の墓地は數年前に撤して、墓石の一部は傳通院の門内へ移し入れ、他の一部は洲崎へ送つた。壽阿彌の墓は前者の中にある。しかし柵《さく》が結《ゆ》つて錠が卸してあるから、雨中に詣《まう》づることは難儀である。幸に當院には位牌《ゐはい》があつて、これに記した文字は墓表と同じであるから佛壇へ案内して進ぜようと答へた。
 わたくしは問うた。「柵が結つてあると仰《おつし》やるのは、壽阿彌一人の墓の事ですか。それとも石塔が幾つもあつて、それに柵が結ひ繞《めぐ》らしてあるのですか。」これは眞志屋の祖先數代の墓があるか否かと思つて云つたのである。
「墓は一つではありません。藤井紋太夫の墓も、力士谷の音の墓もありますから。」
 わたくしは耳を欹《そばだ》てた。「それは思ひ掛けないお話です。藤井紋太夫だの谷の音だのが、壽阿彌に縁故のある人達だと云ふのですか。」
 僧は此間の消息を詳《つまびらか》にしてはゐなかつた。しかし昔から一つ所に葬つて
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