えん》も亦獨り伊澤氏に於て開かれたのみではなく、他家でも催されたさうである。刀自は壽阿彌が同じ講釋をしに永井えいはく方へ往くと云ふことを聞いた。
 永井えいはくは何人なるを詳《つまびらか》にしない。醫師か、さなくば所謂《いはゆる》お坊主などで、武鑑に載せてありはせぬかと思つて檢したが、見當らなかつた。表坊主に横井榮伯があつて、氏名が稍《やゝ》似てゐるが、これは別人であらう。或《あるひ》は想ふに、永井氏は諸侯の抱《かゝへ》醫師|若《もし》くは江戸の町醫ではなからうか。

     十一

 壽阿彌が源氏物語の講釋をしたと云ふことに因《ちな》んだ話を、伊澤の刀自は今一つ記憶してゐる。それはかうである。或時人々が壽阿彌の噂をして、「あの方は坊さんにおなりなさる前に、奧さんがおありなさつたでせうか」と誰やらが問うた。すると誰やらが答へて云つた。「あの方は己《おれ》に源氏のやうな文章で手紙を書いてよこす女があると、己はすぐ女房に持つのだがと云つて入らつしやつたさうです。しかしさう云ふ女がとう/\無かつたと云ふことです。」此話に由つて觀れば、五郎作は無妻であつたと見える。五郎作が千葉氏の女壻《ぢよせい》になつて出されたと云ふ、喜多村|※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]庭《ゐんてい》の説は疑はしい。
 壽阿彌は伊澤氏に來ても、囘向《ゑかう》に來た時には雜談などはしなかつた。しかし講釋に來た時には、事果てゝ後に暫《しばら》く世間話をもした。刀自はそれに就いてかう云ふ。「惜しい事には其時壽阿彌さんがどんな話をなさつたやら、わたくしは記《おぼ》えてゐません。どうも石川貞白さんなどのやうに、子供の面白がるやうな事を仰《おつし》やらなかつたので、後にはわたくしは餘り其席へ出ませんでした。」石川貞白は伊澤氏と共に福山の阿部家に仕へてゐた醫者である。當時阿部家は伊勢守正弘《いせのかみまさひろ》の代であつた。
 刀自は壽阿彌の姪《をひ》の事をも少し知つてゐる。姪は五郎作の妹の子であつた。しかし恨むらくは其名を逸した。刀自の記憶してゐるのは蒔繪師《まきゑし》としての姪の號で、それはすゐさいであつたさうである。若し其文字を知るたつきを得たら、他日訂正することゝしよう。壽阿彌が蒔繪師の株を貰《もら》つたことがあると云ふ※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]庭《ゐんてい》の説は、これを誤り傳へたのではなからうか。
 刀自の識つてゐた頃には、壽阿彌は姪に御家人の株を買つて遣つて、淺草菊屋橋の近所に住はせてゐた。其株は扶持《ふち》が多く附いてゐなかつたので、姪は内職に蒔繪をしてゐたのださうである。
 或るとき伊澤氏で、蚊母樹《いすのき》で作つた櫛《くし》を澤山に病家から貰つたことがある。榛軒は壽阿彌の姪に誂《あつら》へて、それに蒔繪をさせ、知人《しるひと》に配つた。「大そう牙《は》の長い櫛でございましたので、其《その》比《ころ》の御婦人はお使なさらなかつたさうです、今なら宜しかつたのでせう」と刀自は云つた。
 菊屋橋附近の家へは、刀自が度々榛軒に連れられて往つた。始て往つた時は十二歳であつたと云ふから、弘化三年に壽阿彌が七十七歳になつた時の事である。其頃からは壽阿彌は姪と同居してゐて、とう/\其家で亡くなつた。刀自はそれが盂蘭盆《うらぼん》の頃であつたと思ふと云ふ。嘉永元年八月二十九日に歿したと云ふ記載と、略《ほゞ》符合してゐる。
 壽阿彌の姪が茶技《ちやき》に精《くは》しかつたことは、伯父《をぢ》の手紙に徴して知ることが出來るが、その蒔繪を善《よ》くしたことは、刀自の話に由つて知られる。其他蒔繪師としての號をすゐさいと云つたこと、壽阿彌がためには妹の子であつたこと、御家人であつたこと等の分かつたのも、亦《また》刀自の賜である。
 最後に殘つてゐるのは、壽阿彌と水戸家との關係である。壽阿彌が水戸家の用達《ようたし》であつたと云ふことは、諸書に載せてある。しかし兩者の關係は必ず此用達の名義に盡きてゐるものとも云ひ難《にく》い。
 新石町の菓子商なる五郎作は富豪の身の上ではなかつたらしい。それがどうして三家の一たる水戸家の用達になつてゐたか。又|剃髮《ていはつ》して壽阿彌となり、幕府の連歌師の執筆にせられてから後までも、どうして水戸家との關係が繼續せられてゐたか。これは稍《やゝ》暗黒なる一問題である。

     十二

 何故《なにゆえ》に生涯|富人《ふうじん》ではなかつたらしい壽阿彌が水戸家の用達と呼ばれてゐたかと云ふ問題は、單に彼《かの》海録に見えてゐる如く、數代前から用達を勤めてゐたと云ふのみを以て解釋し盡されてはゐない。水戸家が此用達を待つことの頗る厚かつたのを見ると、問題は一層の暗黒を加ふる感がある。
 手紙の記《しる》す所を見るに
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