衞門殿へも宜しく」と特筆してあるから、試に棠園《たうゑん》さんに小右衞門の誰なるかを問うて見たが、これはわからなかつた。
 壽阿彌は此等の人々に一々書を裁するに及ばぬ分疏《いひわけ》に、「府城、沼津、燒津等|所々認《しよ/\したゝめ》候故、自由ながら貴境は先生より御口達|奉願候《ねがひたてまつりそろ》」と云つてゐる。わたくしは筆不精ではないが、手紙不精で、親戚故舊に不沙汰ばかりしてゐるので、讀んで此《こゝ》に到つた時壽阿彌のコルレスポンダンスの範圍に驚かされた。
 壽阿彌の生涯は多く暗黒の中《うち》にある。抽齋文庫には秀鶴册子《しうかくさうし》と劇神仙話とが各《おの/\》二部あつて、そのどれかに抽齋が此人の事を手記して置いたさうである。青々園伊原さんの言《こと》に、劇神仙話の一本は現に安田|横阿彌《よこあみ》さんの藏※[#「去/廾」、204−下−9]《ざうきよ》する所となつてゐるさうである。若し其本に壽阿彌が上に光明を投射する書入がありはせぬか。
 抽齋文庫から出て世間に散らばつた書籍の中《うち》、演劇に關するものは、意外に多く横阿彌さんの手に拾ひ集められてゐるらしい。珍書刊行會は曾《かつ》て抽齋の奧書のある喜三二が隨筆を印行したが、大正五年五月に至つて、又|飛蝶《ひてふ》の劇界珍話と云ふものを收刻した。前者は無論横阿彌さんの所藏本に據つたものであらう。後者に署してある名の飛蝶は、抽齋の次男|優善《やすよし》後の優《ゆたか》が寄席《よせ》に出た頃看板に書かせた藝名である。劇界珍話は優善の未定稿が澀江氏から安田氏の手にわたつてゐて、それを刊行會が謄寫したものではなからうか。

     十

 壽阿彌の生涯は多く暗黒の中にある。寫本刊本の文獻に就てこれを求むるに、得る所が甚だ少い。然るにわたくしは幸に一人の活きた典據を知つてゐる。それは伊澤|蘭軒《らんけん》の嗣子|榛軒《しんけん》の女《むすめ》で、棠軒の妻であつた曾能子刀自《そのことじ》である。刀自は天保六年に生れて大正五年に八十二歳の高齡を保つてゐて、耳も猶《なほ》聰《さと》く、言舌も猶さわやかである。そして壽阿彌の晩年の事を實驗して記憶してゐる。
 刀自の生れた天保六年には、壽阿彌は六十七歳であつた。即ち此手紙が書かれてから七年の後に、刀自は生れたのである。刀自が四五歳の頃は壽阿彌が七十か七十一の頃で、それから刀自が十四歳の時に壽阿彌が八十で歿するまで、此|畸人《きじん》の言行は少女の目に映じてゐたのである。
 刀自の最も古い記憶として遺つてゐるのは壽阿彌の七十七の賀で、刀自が十一歳になつた弘化二年の出來事である。此賀は刀自の父榛軒が主として世話を燒いて擧行したもので、歌を書いた袱紗《ふくさ》が知友の間に配られた。
 次に壽阿彌の奇行が穉《をさな》かつた刀自に驚異の念を作《な》さしめたことがある。それは壽阿彌が道に溺《いばり》する毎に手水《てうづ》を使ふ料にと云つて、常に一升徳利に水を入れて携へてゐた事である。
 わたくしは前に壽阿彌の托鉢《たくはつ》の事を書いた。そこには一たび假名垣魯文《かながきろぶん》のタンペラマンを經由して寫された壽阿彌の滑稽《こつけい》の一面のみが現れてゐた。劇通で芝居の所作事《しよさごと》をしくんだ壽阿彌に斯《かく》の如き滑稽のあつたことは怪むことを須《もち》ゐない。
 しかし壽阿彌の生活の全體、特にその僧侶《そうりよ》としての生活が、啻《たゞ》に滑稽のみでなかつたことは、活きた典據に由つて證せられる。少時の刀自の目に映じた壽阿彌は眞面目《しんめんぼく》の僧侶である。眞面目の學者である。只《たゞ》此僧侶學者は往々人に異なる行を敢《あへ》てしたのである。
 壽阿彌は刀自の穉《をさな》かつた時、伊澤の家へ度々來た。僧侶としては毎月十七日に闕《か》かさずに來た。これは此手紙の書かれた翌年、文政十二年三月十七日に歿した蘭軒の忌日《きにち》である。此日には刀自の父榛軒が壽阿彌に讀經《どきやう》を請ひ、それが畢《をは》つてから饗應して還《かへ》す例になつてゐた。饗饌《きやうぜん》には必ず蕃椒《たうがらし》を皿《さら》に一ぱい盛つて附けた。壽阿彌はそれを剩《あま》さずに食べた。「あの方は年に馬に一|駄《だ》の蕃椒を食べるのださうだ」と人の云つたことを、刀自は猶記憶してゐる。壽阿彌の著てゐたのは木綿の法衣《ほふえ》であつたと刀自は云ふ。
 壽阿彌に請うて讀經せしむる家は、獨り伊澤氏のみではなかつた。壽阿彌は高貴の家へも囘向《ゑかう》に往き、素封家《そほうか》へも往つた。刀自の識つてゐた範圍では、飯田町あたりに此人を請《しやう》ずる家が殊《こと》に多かつた。
 壽阿彌は又學者として日を定めて伊澤氏に請ぜられた。それは源氏物語の講釋をしに來たのである。此|講筵《かう
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