かでない。しかし試《こゝろみ》に推測すればかうである。眞志屋《ましや》の菓子店は新石町にあつて、そこに壽阿彌の五郎作は住んでゐた。此家が文政九年七月九日に松田町から出て、南風でひろがつた火事に燒けた。これが手紙に所謂《いはゆる》丸燒である。さて其跡に建てた家に姪《をひ》を住まはせて菓子を賣らせ、壽阿彌は連歌仲間の淺草の日輪寺其阿が所に移つた。しかし折々は姪の店にも往つてとまつてゐた。怪我をしたのはさう云ふ時の事である。わたくしの推測は、單に此《かく》の如《ごと》くに説くときは、餘りに空漠《くうばく》であるが、下《しも》にある文政十一年の火事の段と併《あは》せ考ふるときは、稍《やゝ》プロバビリテエが増して來るのである。
次に遊行上人《いうぎやうしやうにん》の事が書いてある。手紙を書いた文政十一年三月十日頃に、遊行上人は駿河國志太郡燒津《するがのくにしだごほりやいづ》の普門寺に五日程、それから駿河本町の一華堂に七日程|留錫《りうしやく》する筈《はず》である。さて島田驛の人は定めて普門寺へ十念を受けに往くであらう。※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の親戚《しんせき》が往く時|雜※[#「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2−89−93]《ざつたふ》のために困《くるし》まぬやうに、手紙と切手とを送る。最初に往く親戚は手紙と切手とを持つて行くが好い。手紙は普門寺に宛てたもので、中には證牛と云ふ僧に世話を頼んである。證牛は壽阿彌の弟子である。切手は十念を受ける時、座敷に通す特待券である。二度目からは切手のみを持つて行つて好いと云ふのである。壽阿彌は時宗の遊行派に縁故があつたものと見えて、海録にも山崎美成が遊行上人の事を壽阿彌に問うて書き留めた文がある。
次に文政十一年二月五日の神田の火事が「本月五日」として叙してある。手紙を書く十四日前の火事である。單に二月十九日とのみ日附のしてある此手紙を、文政十一年のものと定めるには、此記事だけでも足るのである。火の起つたのは、武江年表に暮六時《くれむつどき》としてあるが、此手紙には「夜五つ時分」としてある。火元は神田多町二丁目湯屋の二階である。これは二階と云ふだけが、手紙の方が年表より委《くは》しい。年表には初め東風、後北風としてあるのに、手紙には「風もなき夜」としてある。恐くは微風であつたのだらう。
延燒の町名は年表と手紙とに互に出入がある。年表には「東風にて西神田町一圓に類燒し、又北風になりて、本銀町《ほんしろかねちやう》、本町《ほんちやう》、石町《こくちやう》、駿河町《するがちやう》、室町《むろまち》の邊に至り、夜|亥《ゐ》の下刻《げこく》鎭《しづ》まる」と云つてある。手紙には「西神田はのこらず燒失、北は小川町へ燒け出で、南は本町一丁目片かは燒申候、(中略)町數七十丁餘、死亡の者六十三人と申候ことに御座候」と云つてある。
わたくしの前に云つた推測は、壽阿彌が姪の家と此火事との關係によつてプロバビリテエを増すのである。手紙に「愚姪方《ぐてつかた》は大道一筋の境にて東神田故、此《この》度《たび》は免れ候へ共、向側は西神田故過半燒失仕り候」と云つてある。わたくしはこの姪の家を新石町だらうと推するのである。
八
文政十一年二月五日に多町二丁目から出た火事に、大道一筋を境にして東側にあつて類燒を免れた家は、新石町にあつたとするのが殆ど自然であらう。新石町は諸書に見えてゐる眞志屋の菓子店のあつた街である。そこから日輪寺方へ移る時、壽阿彌は菓子店を姪に讓つたのだらう、其時昔の我店が「愚姪方」になつたのだらうと云ふ推測は出て來るのである。
壽阿彌は若《も》し此火事に姪の家が燒けたら、自分は無宿になる筈であつたと云つてゐる。「難澁之段|愁訴可仕《しうそつかまつるべき》水府も、先達而《せんだつて》丸燒故難澁申出候處無之、無宿に成候筈」云々《うんぬん》と云つてゐる。これは此手紙の中の難句で、句讀《くとう》次第でどうにも讀み得られるが、わたくしは水府もの下で切つて、丸燒は前年七月の眞志屋の丸燒を斥《さ》すものとしたい。既に一たび丸燒のために救助を仰いだ水戸家に、再び愁訴することは出來ぬと云ふ意味だとしたい。なぜと云ふに丸燒故の下で切ると、水府が丸燒になつたことになる。當時の水戸家は上屋敷が小石川門外、中屋敷が本郷追分、目白の二箇所、下屋敷が永代新田《えいたいしんでん》、小梅村の二箇所で、此等は火事に逢つてゐないやうである。壽阿彌が水戸家の用達《ようたし》商人であつたことは、諸書に載せてある通りである。
壽阿彌の手紙には、多町《たちやう》の火事の條下に、一の奇聞が載せてある。此《こゝ》に其全文を擧げる。「永富町《ながとみちやう》と申候處の銅物屋《かなものや》大釜《おほが
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