あつたさうである。
師岡未亡人はすゐさいの名を識らない。夫師岡が此號を用ゐたなら、識らぬ筈が無い。そこでわたくしは蒔繪師すゐさいは鈴木であらうと推測した。
此推測は當つたらしい。淺井平八郎さんは眞志屋の遺物の中から、寫本二種を選《え》り出して持つて來た。其一は蒔繪の圖案を集めたもので、西郭、溪雲、北可、玉燕女《ぎよくえんぢよ》等と署した畫が貼《は》り込んである。表紙の表には「畫本」と題し、裏には通二丁目山本と書して塗抹《とまつ》し、「壽哉《じゆさい》所藏」と書してある。其二は浮世繪師の名を年代順に列記し、これに略傳を附したもので、末に狩野家《かのけ》數世の印譜を寫して添へてある。表紙の表には「古今先生記」と題し、裏には「嘉永四|辛亥《しんがい》春」と書し、其下に「鈴木壽哉」の印がある。伊澤榛軒のために櫛に蒔繪したのが、此鈴木壽哉であつたことは、殆ど疑を容れない。壽哉は或はしうさいなどと訓《よ》ませてゐたので、すゐさいと聞き錯《あやま》られたかも知れない。
初めわたくしは壽阿彌の墓を討《もと》めに昌林院へ往つた。そして昌林院の住職に由つて師岡氏未亡人を知り、未亡人に由つて眞志屋文書を見るたつきを得た。然るにわたくしは曾《かつ》て昌林院に至りし日雨に阻《さまた》げられて墓に詣《まう》でなかつた。わたくしは平八郎さんが來た時、これに告ぐるに往訪に意あることを以てした。其時平八郎さんはわたくしに意外な事を語つた。それはかうである。近頃昌林院は墓地を整理するに當つて、墓石の一部を傳通院内に移し、爾餘のものは別に處分した。そして壽阿彌の墓は傳通院に移された墓石中には無かつた。師岡氏未亡人は忌日に參詣して、壽阿彌の墓の失踪《しつそう》を悲み、寺僧に其所在を問うて已《や》まなかつた。寺僧は資を捐《す》てて新に壽阿彌の石を立てた。今傳通院にあるものが即是である。未亡人石は毎《つね》に云つてゐる。「原《もと》の壽阿彌のお墓は硯《すゞり》のやうな、綺麗な石であつたのに、今のお墓はなんと云ふ見苦しい石だらう。」
わたくしは曩《さき》に寺僧の言《こと》を聞いた時、壽阿彌が幸にして盛世|碑碣《ひけつ》の厄《やく》を免れたことを喜んだ。然るに當時寺僧は實を以てわたくしに告げなかつたのである。壽阿彌の墓は香華《かうげ》未だ絶えざるに厄に罹《かゝ》つて、後僅に不完全なる代償を得たのである。
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