ふ所に從へば、神惟徳《しんゐとく》の米庵略傳に下《しも》の如く云つてあるさうである。「震災後二年を隔てゝ夏秋の交に及び、先生時邪に犯され、發熱|劇甚《げきじん》にして、良醫|交※[#二の字点、1−2−22]《こも/″\》來《きた》り診《しん》し苦心治療を加ふれど効驗なく、年八十にして七月十八日|溘然《かふぜん》屬※[#「糸+廣」、第3水準1−90−23]《ぞくくわう》の哀悼《あいたう》を至す」と云ふのである。又當時虎列拉に死した人々の番附が發刊せられた。三陽さんは其二種を藏してゐるが、並《ならび》に皆米庵を載せてゐるさうである。
 壽阿彌の※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂に遣《や》つた手紙は、二三の友人がこれを公にせむことを勸めた。わたくしも此手紙の印刷に附する價値あるものたるを信ずる。なぜと云ふに、その記する所は開明史上にも文藝史上にも尊重すべき資料であつて、且讀んで興味あるべきものだからである。
 手紙には考ふべき人物九人と※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の親戚《しんせき》知人四五人との名が出てゐる。前者中儒者には山本北山がある。詩人には大窪《おほくぼ》天民、菊池五山、石野|雲嶺《うんれい》がある。歌人には岸本|弓弦《ゆづる》がある。畫家には喜多可庵がある。茶人には川上宗壽がある。醫師には分家名倉がある。俳優には四世坂東彦三郎がある。手紙を書いた壽阿彌と其親戚と、手紙を受けた※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂と其親戚知人との外、此等《これら》の人物の事蹟の上に多少の光明を投射する一篇の文章に、史料としての價値があると云ふことは、何人も否定することが出來ぬであらう。

     三

 わたくしは壽阿彌の手紙に註を加へて印刷に付することにしようかとも思つた。しかし文政頃の手紙の文は、縱《たと》ひ興味のある事が巧に書いてあつても、今の人には讀み易くは無い。忍んでこれを讀むとしたところで、許多《あまた》の敬語や慣用語が邪魔になつてその煩はしきに堪へない。ましてやそれが手紙にめづらしい長文なのだから、わたくしは遠慮しなくてはならぬやうに思つて差し控へた。
 そしてわたくしは全文を載せる代りに筋書を作つて出すことにした。以下が其筋書である。
 手紙には最初に二字程下げて、長文と云ふことに就いてのことわりが言つ
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