門は仙石家に仕へて、氏名を原|逸《はや》一と更《あらた》めた。頗《すこぶ》る氣節のある人で、和歌を善くし、又畫を作つた。畫の號は南田である。晩年には故郷に歸つて、明治の初年に七十餘歳で歿したさうである。文政十一年の二月は此清右衞門が奉公口に有り附いた當座であつたのではあるまいか。氣節のある人が志を得ないでゐたのに、昨今どうやらかうやら辛抱してゐると云ふやうに、壽阿彌の文は讀まれるのである。
次の一節は頗る長く、大窪天民と喜多可庵との直話《ぢきわ》を骨子として、逐年物價が騰貴し、儒者畫家などの金を獲《う》ることも容易ならず、束脩《そくしう》謝金の高くなることを言つたものである。
大窪天民は、「客歳《かくさい》」と云つてあるから文政十年に、加賀から大阪へ旅稼《たびかせぎ》に出たと見える。天民の收入は、江戸に居つても「一日に一分や一分二朱」は取れるのである。それが加賀へ往つたが、所得は「中位」であつた。それから「どつと當るつもり」で大阪へ乘り込んだ。大阪では佐竹家|藏屋敷《くらやしき》の役人等が周旋して大賈《たいこ》の書を請ふものが多かつた。然るに天民は出羽國秋田郡久保田の城主佐竹右京大夫|義厚《よしひろ》の抱への身分で、佐竹家藏屋敷の役人が「世話を燒いてゐる」ので、町人共が「金子の謝禮はなるまいとの間《かん》ちがひ」をしたので、ここも所得は少かつた。此旅行は「都合日數二百日にて、百兩ばかり」にはなつた。「一日が二分ならし」である。これでは江戸にゐると大差はなく、「出かけただけが損」だと云つてある。
五
天民が加賀から歸る途中の事に就て、壽阿彌はかう云つてゐる。「加賀の歸り高堂の前をば通らねばならぬ處ながら、直通《すぐどほ》りにて、其夜は雲嶺へ投宿のやうに申候、是は一杯飮む故なるべし。」天民の上戸《じやうご》は世の知る所である。此文を見れば、雲嶺も亦酒を嗜《たし》んだことがわかり、又※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂が下戸であつたことがわかる。雲嶺は石野氏、名は世彜《せいい》、一に世夷《せいい》に作る、字《あざな》は希之《きし》、別に天均又|皆梅《かいばい》と號した。亦《また》駿河の人で詩を善くした。皇朝分類名家絶句等に其作が載せてある。
皇朝分類名家絶句の事は、わたくしは初め萩野由之《はぎのよしゆき》さんに質《たゞ》して知つた。
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