た。この父子の他《ほか》、俳優にして香以の雨露に浴したものには、猶《なお》市川小団次、中村|鴻蔵《こうぞう》、市川米五郎、松本国五郎等がある。
 香以の通った妓楼は初め吉原江戸町一丁目玉屋山三郎方で、後|角町《すみまち》稲本楼である。玉屋には濃紫《こむらさき》、稲本には二世小稲がいた。引手茶屋は玉屋に通った時、初め近江屋《おうみや》半四郎、後大坂屋忠兵衛、稲本に通った時仲の町の鶴彦《つるひこ》であった。
 香以が取巻はほとんど数え尽されぬ程あった。中にはこれを取巻に厠《まじ》うるはあるいは酷に失するかも知れぬと思われる人もある。しかし区別して論ずることもまた容易でない。
 俳諧師には既に挙げた為山、永機の外、鳥越等栽、原田梅年、牧冬映、野村守一がある。梅年は後六世雪中庵と称した。嵐雪、吏登、蓼太《りょうた》、完来、対山、梅年と云う順序だそうである。守一、通称は新蔵、鶴歩庵《かくほあん》と云った。
 狂歌師には勝田諸持とその子福太郎と、室田鶴寿、石橋真国がある。福太郎は綽号《あだな》を油徳利と云った。後に一中節において父の名を襲《つ》ぎ、二世紫文となった人である。鶴寿は梅屋と云った。通称は又兵衛、長谷川町の待合茶屋である。真国は通称七兵衛である。
 狂言作者には河竹新七、次で瀬川|如皐《じょこう》がある。新七は元の柴晋助《しばしんすけ》である。
 彫工には石黒某がある。画家には取巻に算すべからざる人もあるが、松本交山、狩野|晏川《あんせん》、月岡芳年、柴田是真、鳥居清満、辻花雪、福島|隣春《ちかはる》、四方梅彦がある。傭書家には宮城玄魚がある。
 商人もしくは商家の隠居には先ず小倉|阿猿《おさる》がある。団子坂の質屋の隠居で、後に是阿弥と云った。阿心庵是仏がある。谷中三河屋の主人である。大津屋|古朴《こぼく》がある。船宿の隠居である。金屋仙之助の竺仙《ちくせん》がある。竹川町の競《せり》呉服商である。
 医師に石川|甫淳《ほじゅん》がある。外科専門であった。俳諧の号を雁伍《がんご》と云った。
 落語家には乾坤坊良斎、五明楼|玉輔《たますけ》、春風亭柳枝、入船米蔵がある。玉輔は馬生《ばしょう》の後の名である。講談師には二代目文車、桃川|燕国《えんこく》、松林伯円がある。燕国は後の如燕《じょえん》である。

       八

 専業の幇間《ほうかん》で、当時山城河岸の家へ出入していたものは、桜川善孝、荻江《おぎえ》千代作、都千国、菅野《すがの》のん子等である。千国は初の名が荻江露助、後に千中と云う。玄冶店《げんやだな》に住んでいた。また吉原に往った時に呼ばれたものは都|有中《うちゅう》、同《おなじく》権平、同米八、清元千蔵、同仲助、桜川寿六、花柳鳴助等である。中にも有中は香以がその頓才《とんさい》を称して、常に傍《かたわら》に侍せしめた。
 吉原の女芸者は見番大黒屋庄六方から、きわ、ぎん、春、鶴《つる》等が招かれた。きわは後花柳寿輔の妻になった。春は当時既に都権平の妻になっていた。駿河屋の鶴は間もなく香以の囲物《かこいもの》にせられた。
 香以は暫く吉原に通っているうちに、玉屋の濃紫を根引した。その時濃紫が書いたのだと云って「紫の初元結に結込めし契は千代のかためなりけり」と云う短冊が玉屋に残っていた。本妻は濃紫との折合が悪いと云って木場へ還された。濃紫は女房くみとなり、次でふさと改めた。これは仲の町の引手茶屋駿河屋とくの抱《かかえ》鶴が引かせられたより前の事である。
 家にいての香以の生活は余り贅沢《ぜいたく》ではなかった。料理は不断|南鍋町《みなみなべちょう》の伊勢勘から取った。蒲焼《かばやき》が好で、尾張屋、喜多川が常に出入した。特に人に馳走《ちそう》をする時などは、大抵数寄屋町の島村半七方へ往った。香以を得意の檀那としていた駕籠屋《かごや》は銀座の横町にある方角と云う家で、郵便のない当時の文使《ふみづかい》に毎日二人ずつの輿丁《よてい》が摂津国屋に詰めていた。
 濃紫が家に来た後も、香以の吉原通は息《や》まなかった。遊に慣れたものは燈燭《とうしょく》を列《つら》ねた筵席《えんせき》の趣味を忘るることを得ない。次の相手は同じ玉屋の若紫であった。
 ある日香以は松本交山を深川富が岡|八幡宮《はちまんぐう》の境内に訪うて、交山が松竹を一双の金屏風《きんびょうぶ》に画いたのを見た。これは某《それがし》が江戸町一丁目和泉屋平左衛門の抱泉州に贈らむがために画かせたものであった。
 香以はこの屏風を横奪して、交山には竹川町点心堂の餡《あん》に、銀二十五両を切餅《きりもち》として添えて遺《おく》った。当時二十五両包を切餅と称したからである。交山は下戸であった。
 香以は屏風巻上始末を書いて悪摺《あくずり》に摺《す》らせ、知友の間に頒《わか》った。そして屏風を玉屋山三郎に遺った。しかし山三郎にはこの屏風は女郎の床には立てぬと云う一札を入れさせたのである。
 安政四年になって銀鎖《ぎんぐさり》の煙草入《たばこいれ》が流行《はや》った。香以は丸利に誂《あつら》えて数十箇を作らせ、取巻一同に与えた。古渡唐桟《こわたりとうざん》の羽織を揃《そろい》に為立《した》てさせて、一同に※[#「嚊のつくり−自」、第4水準2−81−24]《あた》えたのもこの頃である。
 この年の春竹川町の三村氏が香以に応挙の鯉《こい》一幅を贈った。香以はこれを獲て応挙の鯉三十六幅を集めようと思い立った。書画|骨董商等《こつとうしょうら》は京阪地方をまで捜して幅数を揃えた。しかし交山、柴田是真等に示すに、その大半は贋物《がんぶつ》であった。香以は憤って更に現存の画家三十六人を選んで鯉を画かせた。そして十一月に永機を招いて鯉の聯句を興行した。その時配った半歌仙には鳥居清満が鯉の表紙画をかき、香以が暫《しばらく》のつらねに擬した序を作った。その末段はこうである。「点ならござれ即点に、素襖《すあを》の柿《かき》のへたながら、大刀《たち》の切字や手爾遠波《てにをは》を、正して点をかけ烏帽子《ゑぼし》、悪く謗《そし》らば片つはし、棒を背負《しよ》つた挙句の果、此世の名残執筆の荒事、筆のそつ首引つこ抜き、硯《すゞり》の海へはふり込むと、ほゝ敬《うやま》つて白《まう》す。」
 この年の秋猿若町市村座で、河竹新七作|網摸様燈籠菊桐《あみもようとうろのきくきり》が興行せられた。享保中の遊女玉菊の事に網打七五郎の事を併せて作ったものである。香以は河原崎権十郎、市川小団次の二人に引幕一張ずつを贈り、芸者おさんに扮した市川米五郎と桜川善孝に扮した中村鴻蔵との衣裳《いしょう》持物を寄附した。これは皆権十郎を引き立てるためであった。
 香以が浅草日輪寺で遊行上人に謁し、阿弥号|許多《あまた》を貰い受けたのもこの頃の事である。香以自己は寿阿弥と号し、幾《いくば》くもなくこれを河竹新七に譲って、梅阿弥と更めた。この年香以は三十六歳であった。

       九

 安政五年の三月市村座に、江戸桜清水清玄と云う狂言が演ぜられた。場面は仲の町引手茶屋の前である。源之助の番頭新造が吉六の俳諧師東栄の胸倉を取っている。これは東栄が所謂《いわゆる》性悪《しょうわる》をして、新造花川に負《そむ》いたために、曲輪《くるわ》の法で眉《まゆ》を剃《そ》り落されそうになっているところである。鴫蔵《しぎぞう》竹助の妓夫《ぎふ》が東栄を引き立てて暖簾《のれん》の奥に入る。次で国五郎、米五郎、小半次、三太郎、島蔵の侍等《さぶらいら》が花道を出て、妓夫に案内せられて奥に入る。三十郎の遊女揚巻父押上村新兵衛が白酒売となって出る。侍等が出て白酒を飲んで価を償わずに花道へ入る。小団次の黒手組助六が一人の侍の手を捩《ね》じ上げて花道から出て侍等を懲《こら》す。侍等は花道を逃げ入る。この時権十郎の紀伊国屋文左衛門が暖簾を搴《かか》げて出る。その拵《こしらえ》は唐桟の羽織を著、脇差《わきざし》を差し駒下駄《こまげた》を穿《は》いている。背後《うしろ》には東栄が蛇の目傘を持って附いている。合方は一中節を奏する。文左衛門は助六を呼んで戒飭《かいちょく》する。舞台が廻ると、揚巻の座敷である。文左衛門が揚巻の身受をして助六に妻《めあわ》せる。揚巻は初め栄三郎、後梅幸であった。
 狂言の文左衛門は、この頃遊所で香以を今紀文と称《とな》え出したに因《ちな》んで、この名を藉《か》りて香以を写したものである。東栄は牧冬映である。二人の衣裳持物は都《すべ》て香以の贈《おくりもの》で文左衛門の銀装《ぎんごしらえ》の脇差は香以の常に佩《お》びた物である。この狂言の作者は香以の取巻の一人河竹新七であった。吉六は東栄に扮《ふん》した後、畢生《ひっせい》東鯉と号したが、東は東栄の役を記念したので、鯉は香以の鯉角から取ったのである。
 この年八月二十六日に市川権十郎は芸道に奨《はげ》み、贔屓に負かぬと云う誓文《せいもん》を書き、父七代目団十郎の寿海老人に奥書をさせて香以に贈った。
 香以のこの頃往った妓楼は稲本、相方は二代目小稲であった。所謂《いわゆる》お側去《そばさ》らずの取巻は冬映、最も愛せられていた幇間は都有中であった。
 有中は素《もと》更紗染屋《さらさそめや》の出身で、遊芸には通じていても文字を識らなかった。そこで貸本に由って知識を求め、最も三国志を喜んだ。香以は有中が口を開けば孔明を称するのを面白がって、金を出して遣って孔明祭を修せしめた。今の富豪が乃木祭を行う類である。それからは有中に陣大鼓の綽号《あだな》が附けられた。
 香以はこの年三十七歳であった。恐らくはその盛名の絶頂に達した時であっただろう。取巻の一人勝田諸持は、この年二月二十二日に六十八歳で歿した。彼《かの》学者の渋江抽斎《しぶえちゅうさい》、書家の市河米庵、ないし狂歌師仲間の六朶園《ろくだえん》荒井雅重、家元仲間の三世清元延寿太夫等と同じく、虎列拉《コレラ》に冒されたのかも知れない。諸持は即ち初代宇治紫文である。
 安政六年には香以の身代がやや傾きはじめたらしい。前田家、上杉家等の貸附はほぼ取り立ててしまい、家に貯えた古金銀は概《おおむ》ね沽却《こきゃく》せられたそうである。しかし香以の豪遊は未だ衰えなかった。
 香以はこの年江の島、鎌倉、金沢を巡覧した。同行したものは為山、等栽、永機、竺仙等であった。小倉是阿弥の茶室の張交《はりまぜ》になっていた紀行が果してこの遊を叙したものであったなら、一行には女も二三人加わっていたはずである。有中は供に立つ約束をして置きながら、出発の間に合わなかったので、三枚肩の早打で神奈川台へ駆け附け、小判五枚の褒美を貰い、駕籠舁《かごかき》も二枚貰った。
 香以は途次藤沢の清浄光寺に詣《もう》で、更に九つの阿弥号を遊行上人から受けて人に与えた。

       十

 香以は旅から帰った後、旧に依って稲本に通っていた。相方は小稲であった。然るにこの頃同じ家に花鳥と云う昼三《ちゅうさん》がいた。花鳥は恐るべき経歴を有していた。ある時は人の囲いものとなっていて情夫と密会し、暇《いとま》を取る日に及んで、手切金を強請した。ある時は支度金を取って諸侯の妾《しょう》に住み込み、故意に臥所《ふしど》に溺《いばり》して暇になった。そしてその姿態は妖艶《ようえん》であった。
 花鳥は廊下で香以に逢うごとに秋波《しゅうは》を送った。ある夕《ゆうべ》小稲が名代床《みょうだいどこ》へ往って、香以が独《ひとり》無聊《ぶりょう》に苦んでいると、花鳥の使に禿《かぶろ》が来た。香以はうっかり花鳥の術中に陥った。
 数日の後であった。大引過《おおびけすぎ》の夜は寂としていた。香以は約を履《ふ》んで花鳥の屏風の中に入った。忽《たちま》ち屏風をあららかに引き退けて飛び込んだものがある。それは小稲の番新《ばんしん》豊花であった。
 香以は豊花に拉《ひ》いて往かれて座敷に坐った。鶴彦は急使を以て迎えられた。巽育《たつみそだち》の豊花が甲走った声に誘《いざな》われて、無遠慮な男女は廊下に集まり、次の
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