細木香以
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)津藤《つとう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)香以の父|竜池《りゅうち》の事に

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(例)自ら※[#「坐+りっとう」、第3水準1−14−62]《きざ》み
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       一

 細木香以は津藤《つとう》である。摂津国屋《つのくにや》藤次郎である。わたくしが始めて津藤の名を聞いたのは、香以の事には関していなかった。香以の父|竜池《りゅうち》の事に関していた。摂津国屋藤次郎の称《となえ》は二代続いているのである。
 わたくしは少年の時、貸本屋の本を耽読《たんどく》した。貸本屋が笈《おい》の如くに積み畳《かさ》ねた本を背負って歩く時代の事である。その本は読本《よみほん》、書本《かきほん》、人情本の三種を主としていた。読本は京伝《きょうでん》、馬琴《ばきん》の諸作、人情本は春水《しゅんすい》、金水《きんすい》の諸作の類で、書本は今|謂《い》う講釈|種《だね》である。そう云う本を読み尽して、さて貸本屋に「何かまだ読まない本は無いか」と問うと、貸本屋は随筆類を推薦する。これを読んで伊勢|貞丈《ていじょう》の故実の書等に及べば、大抵貸本文学卒業と云うことになる。わたくしはこの卒業者になった。
 わたくしは初め馬琴に心酔して、次で馬琴よりは京伝を好くようになり、また春水、金水を読み比べては、初から春水を好いた。丁度後にドイツの本を読むことになってからズウデルマンよりはハウプトマンが好だと云うと同じ心持で、そう云う愛憎をしたのである。
 春水の人情本には、デウス・エクス・マキナアとして、所々《しょしょ》に津藤さんと云う人物が出る。情知《なさけしり》で金持で、相愛《あいあい》する二人を困厄の中から救い出す。大抵津藤さんは人の対話の内に潜んでいて形を現さない。それがめずらしく形を現したのは、梅暦《うめごよみ》の千藤《ちとう》である。千葉の藤兵衛である。
 当時|小倉袴《こくらばかま》仲間の通人がわたくしに教えて云った。「あれは摂津国屋藤次郎と云う実在の人物だそうだよ」と。モデエルと云う語はこう云う意味にはまだ使われていなかった。
 この津藤セニョオルは新橋山城町の酒屋の主人であった。その居る処から山城|河岸《がし》の檀那《だんな》と呼ばれ、また単に河岸の檀那とも呼ばれた。姓は源、氏《うじ》は細木、定紋は柊《ひいらぎ》であるが、店の暖簾《のれん》には一文字の下に三角の鱗形《うろこがた》を染めさせるので、一鱗堂《いちりんどう》と号し、書を作るときは竜池《りゅうち》と署し、俳句を吟じては仙塢《せんう》と云い、狂歌を詠じては桃江園《とうこうえん》また鶴《つる》の門雛亀《とひなかめ》、後に源僊《みなもとのやまひと》と云った。
 竜池は父を伊兵衛《いへえ》と云った。伊兵衛は竜池が祖父の番頭であったのを、祖父が人物を見込んで養子にした。摂津国屋の店を蔵造《くらづくり》にしたのはこの伊兵衛である。奥蔵を建て増し、地所を買い添えて、山城河岸を代表する富家にしたのはこの伊兵衛である。
 伊兵衛は七十歳近くなって、竜池に店を譲って隠居し、山城河岸の家の奥二階に住んでいた。隠居した後も、道を行きつつ古草鞋《ふるわらじ》を拾って帰り、水に洗い日に曝《さら》して自ら※[#「坐+りっとう」、第3水準1−14−62]《きざ》み、出入の左官に与えなどした。しかし伊兵衛は卑吝《ひりん》では無かった。某年に芝泉岳寺で赤穂四十七士の年忌が営まれた時、棉服の老人が墓に詣《もう》でて、納所《なつしょ》に金百両を寄附し、氏名を告げずして去った。寺僧が怪んで人に尾行させると、老人は山城河岸摂津国屋の暖簾の中に入った。

       二

 竜池は家を継いでから酒店《さかみせ》を閉じて、二三の諸侯の用達《ようたし》を専業とした。これは祖先以来の出入先で、本郷五丁目の加賀中将家、桜田堀通の上杉侍従家、桜田|霞《かすみ》が関《せき》の松平少将家の三家がその主《おも》なるものであった。加賀の前田は金沢、上杉は米沢、浅野松平は広島の城主である。
 文政の初年には竜池が家に、父母伊兵衛夫婦が存命していて、そこへ子婦《よめ》某氏が来ていた。竜池は金兵衛以下数人の手代《てだい》を諸家へ用聞に遣《や》り、三日式日《さんじつしきじつ》には自身も邸々《やしきやしき》を挨拶《あいさつ》に廻った。加賀家は肥前守斉広卿《ひぜんのかみなりのりきょう》の代が斉泰卿《なりやすきょう》の代に改まる直前である。上杉家は弾正大弼斉定《だんじょうのたいひつなりさだ》、浅野家は安芸守斉賢《あきのかみなりかた》の代である。
 父伊兵衛は恐らくは帳簿と書出とにしか文字を書いたことはあるまい。然《しか》るに竜池は秦星池《はたせいち》を師として手習をした。狂歌は初代|弥生庵雛麿《やよいあんひなまろ》の門人で雛亀《ひなかめ》と称し、晩年には桃《もも》の本鶴廬《もとかくろ》また源仙《げんせん》と云った。また俳諧をもして仙塢《せんう》と号した。
 父伊兵衛は恐らくは遊所に足を入れなかったであろう。然るに竜池は劇場に往き、妓楼《ぎろう》に往った。竜池は中村、市村、森田の三座に見物に往く毎に、名題《なだい》役者を茶屋に呼んで杯を取らせた。妓楼は深川、吉原を始とし、品川へも内藤新宿へも往った。深川での相手は山本の勘八と云う老妓であった。吉原では久喜《ひさき》万字屋の明石《あかし》と云うお職であった。
 竜池が遊ぶ時の取巻は深川の遊民であった。桜川由次郎、鳥羽屋小三次、十寸見《ますみ》和十、乾坤坊《けんこんぼう》良斎、岩窪《いわくぼ》北渓、尾の丸|小兼《こかね》、竹内《ちくない》、三竺《さんちく》、喜斎等がその主なるものである。由次郎は後に吉原に遷って二代目|善孝《ぜんこう》と云った。和十は河東節《かとうぶし》の太夫、良斎は落語家、北渓は狩野《かの》家から出て北斎門に入った浮世絵師、竹内は医師、三竺、喜斎は按摩《あんま》である。
 竜池は祝儀の金を奉書に裹《つつ》み、水引を掛けて、大三方に堆《うずたか》く積み上げて出させた。
 竜池は涓滴《けんてき》の量だになかった。杯は手に取っても、飲むまねをするに過ぎなかった。また未《いま》だかつて妓楼に宿泊したことがなかった。
 為永春水はまだ三鷺《さんろ》と云い、楚満人《そまびと》と云った時代から竜池と相識になってこの遊の供をした。竜池が人情本中に名を留《とど》むるに至ったのは此《ここ》に本《もと》づいている。
 竜池は我名の此《かく》の如くに伝播《でんぱ》せらるるを忌まなかった。啻《ただ》にそれのみではない。竜池は自ら津国名所と題する小冊子を著《あらわ》して印刷せしめ、これを知友に頒《わか》った。これは自分の遊の取巻供を名所に見立てたもので、北渓の画が挿《さしはさ》んであった。
 文政五年に竜池の妻が男子を生んだ。これは摂津国屋の嗣子で、小字《おさなな》を子之助《ねのすけ》と云った。文政五年は午《うま》であるので、俗習に循《したが》って、それから七つ目の子《ね》を以て[#「以て」は底本では「似て」]名となしたのである。二代目津藤として出藍《しゅつらん》の誉《ほまれ》をいかがわしい境に馳せた香以散人はこの子之助である。

       三

 わたくしが香以の名を聞いたのは、彼《かの》人情本によって津藤の名を聞いたのと、余り遅速は無かったらしい。否《いな》あるいは同時であったかも知れない。その後にはこの名のわたくしの耳目に触れたことが幾度《いくたび》であったか知れぬが、わたくしは始終深く心に留めずに、忽《たちま》ち聞き忽ち忘れていた。そしてその間《あいだ》竜池香以の父子を混同していた。
 それからある時香以と云う名が、わたくしの記憶に常住することになった。それは今住んでいる団子坂の家に入った時からの事である。
 この家は香以に縁故のある家で、それを見出したのは当時存命していたわたくしの父である。父は千住で医業をしていたが、それを廃《や》めてわたくしと同居しようとおもった。そして日々家を捜して歩いた。その時この家は眺望の好《い》い家として父の目に止まった。
 団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道《そばみち》に似た小径《こみち》がある。これを藪下《やぶした》の道と云う。そして所謂《いわゆる》藪下の人家は、当時根津の社《やしろ》に近く、この道の東側のみを占めていた。これに反して団子坂に近い処には、道の東側に人家が無く、道は崖《がけ》の上を横切っていた。この家の前身は小径を隔ててその崖に臨んだ板葺《いたぶき》の小家であった。
 崖の上は向岡《むこうがおか》から王子に連る丘陵である。そして崖の下の畠《はたけ》や水田を隔てて、上野の山と相対している。彼小家の前に立って望めば、右手に上野の山の端《はな》が見え、この端と向岡との間が豁然《かつぜん》として開けて、そこは遠く地平線に接する人家の海である。今のわたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見えるのは、この方角である。
 父はこの小家に目を著けて、度々崖の上へ見に往った。小家には崖に面する窓があって、窓の裡《うち》にはいつも円頂の媼《おうな》がいた。「綺麗な比丘尼《びくに》」と父は云った。
 父は切絵図を調べて、綺麗な比丘尼の家が、本《もと》世尊院の境内であったことを知った。世尊院は今旧境内の過半を失って、西の隅に片寄っている。
 父はわたくしを誘《いざな》って崖の上へ見せに往った。わたくしはこの崖をもこの小家をも兼て知っていたが、まだ父程に心を留めては見なかったのである。眺望は好い。家は市隠の居処とも謂うべき家である。そして窓の竹格子の裡には綺麗な比丘尼がいた。比丘尼はもう五十を越していたであろう。もし媼《おうな》をも美人と称することが出来るなら、この比丘尼は美人であったと云いたい。
 父はわたくしの同意を得てから、この家を買おうとして、家の持主の誰《たれ》なるかを問うことにした。団子坂の下に当時千樹園と云う植木屋があった。父は千樹園の主人を識っていたので、比丘尼の家の事を問うた。
 千樹園はこう云った。崖の上の小家は今住んでいる媼の所有である。媼は高木ぎんと云って、小倉と云うものの身寄である。小倉は本《もと》質屋で、隠居してから香以散人の取巻をしていたが、あの家で世を去った。媼は多分あの家を売ることを惜まぬであろうと云った。

       四

 千樹園が世話をして、崖の上の小家を買う相談は、意外に容易《たやす》く纏《まと》まった。高木ぎんの地所は本《もと》やや広い角地面であったのを、角だけ先ず売ったので、跡は崖に面した小家のある方から、団子坂上の街に面した方へ鉤形《かぎなり》に残っている。その街に面した処に小さい町家が二軒ある。一つは地所も家も高木のもので、貸店《かしだな》になって居り、一つは高木の地所に鳶頭《とびがしら》の石田が家を建てて住んでいる。ぎんは取引が済んでこの貸店に移った。
 父は千住の大きい家を畳んで、崖の上の小家に越して来た。千住の家は徳川将軍が鷹野《たかの》に出る時、小休所《こやすみじょ》にしたと云う岡田氏の家で、これにほとんど小さい病院のような設備がしてあったのである。父は小家に入って「身軽になったようだ」と云った。そこへわたくしは太田の原の借家から来て一しょになった。
 小家は三間に台所が附いている。三間は六畳に、三畳に、四畳半で、四畳半は茶室造である。後にこの茶室が父の終焉《しゅうえん》の所となった。
 茶室の隣の三畳に反古張《ほぐばり》の襖《ふすま》が二枚立ててある。反古は俳文の紀行で、文字と挿画《さしえ》とが相半《あいなかば》している。巻首には香以散人の半身像がある。草画ではあるが、円顔の胖大漢《はんだいかん》だと云うことだけは看取せられる。
 崖の上の小家は父の
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