歿後に敗屋となって、補繕し難いために毀《こぼ》たれた。反古張りの襖も剥落《はくらく》し尽していた。今にして思えばこれは安政六年の夏に、香以が三十八歳で江の島、鎌倉を廻《めぐ》った紀行の草稿であったらしい。
崖の上の小家の址《あと》は、今は過半空地になっている。大正四年に母が七十の賀をする代《かわり》に、部屋を建てて貰《もら》いたいと云ったので、わたくしは母の指図に従って四畳半の見積を大工に命じた。そのうち母が大病になった。わたくしは母の存命中に部屋を落成させようとして工事を急いだ。五年三月に部屋は出来て、壁の中塗だけ済んだ。母はこれに臥所《ふしど》を徙《うつ》して喜んだが、間もなく世を去った。今わたくしが書斎にしているのがこの部屋で、壁は中塗のままである。昔崖の上の小家の台所であった辺が、この部屋の敷地である。
父母と共に崖の上の小家に移った時から、わたくしは香以の名を牢記《ろうき》している。既にしてわたくしはこの家の旧主人小倉が後に名を是阿弥《ぜあみ》と云ったことを知った。香以は相摸国《さがみのくに》高座郡藤沢の清浄光寺の遊行上人《ゆうぎょうしょうにん》から、許多《あまた》の阿弥号を受けて、自ら寿阿弥と称し、次でこれを河竹其水《かわたけきすい》に譲って梅阿弥《ばいあみ》と称し、その後また方阿弥と改め、その他の阿弥号は取巻の人々に分贈した。是阿弥はその一つだそうである。
香以は明治三年九月十日に歿した。翌四年の一周忌を九月十日に親戚《しんせき》がした。後に取巻の人々は十月十日を期して、小倉是阿弥の家に集まって仏事を営み、それから駒込《こまごめ》願行寺《がんぎょうじ》の香以が墓に詣《もう》でた。この法要の場所は即《すなわ》ち崖の上の小家であったのである。
五
香以の子之助は少年の時|経《けい》を北静廬《きたせいろ》に学び、筆札を松本|董斎《とうさい》に学んだ。静廬は子之助が十四歳の時、既に七十に達して、竹川町西裏町に隠居していた。子之助は纔《わずか》に字を識るに及んで、主に老荘の道を問うたそうである。董斎は董其昌《とうきしょう》風の書を以って名を得た人で、本石町塩河岸に住んでいた。
子之助が生れてから人と成るまでの間には、年月を詳《つまびらか》にすべき事実が甚だ少い。文政六年には父竜池の師|秦《はた》星池が六十一歳で歿した。子之助が甫《はじめ》て二歳の時である。八年七月二十九日には祖父伊兵衛の妻が歿した。法諡《ほうし》を臨照院相誉迎月|大姉《だいし》と云う。子之助が四歳の時である。十一年には父の友|楚満人《そまびと》が狂訓亭春水と号した。子之助が七歳の時である。
父竜池がこの頃《ころ》の友には、春水、良斎、北渓よりして外、猶《なお》勝田|諸持《もろもち》があった。諏訪町《すわちょう》の狂歌師|千種庵《ちくさあん》川口|霜翁《そうおう》の後を襲《つ》いで、二世千種庵と云う。一中節の名は都一閑斎である。後に別派を立てて宇治紫文と更《あらた》め、池《いけ》の端《はた》に住んだのがこの人である。竜池は当時北渓に席画を作らせ、諸持に狂歌の判をさせ、春水、良斎等を引き連れて花柳の巷《ちまた》に遊んでいた。
子之助は天保九年に十七歳になった頃から、料理屋、船宿に出入し、芸者に馴染《なじみ》が出来、次で内藤新宿、品川の妓楼に遊んだ。
天保十二年の頃には竜池、香以の父子が相踵《あいつ》いでクリジスに遭ったらしい。子之助とその姉とを生んだ竜池の妻はこの頃離縁になった。子之助の姉は外桜田堀通の上杉弾正大弼斉憲《うえすぎだんじょうのたいひつなりのり》[#ルビの「だんじょう」は底本では「だんじゅう」]の奥に仕えていた。竜池は尋《つい》で三十間堀住の十人衆三村清左衛門の分家、竹川町の鳥羽屋三村清吉の姉すみを納《い》れて後妻とし、同時に山王町に別宅を構えて妾《しょう》を置いた。
未だ幾《いくばく》ならぬに、竜池は将《まさ》に刑辟《けいへき》に触れむとして纔《わずか》に免れた。これは女郎買案内を作って上梓《じょうし》し、知友の間に頒《わか》った事が町奉行の耳に入ったのである。頼《さいわい》に加賀町の名主田中平四郎がこれを知って、密《ひそか》に竜池に告げた。竜池は急に諸役人に金を餽《おく》って弥縫《びほう》し、妾に暇を遣《つかわ》し、別宅を売り、遊所通《ゆうしょがよい》を止めた。内山町の盲人|百島勾当《ももしまこうとう》の家を遊所《あそびどころ》として諸持等を此《ここ》に集《つど》えることになったのは当時の事である。
子之助はこの年十二月下旬に継母の里方鳥羽屋に預けられた。これは新宿、品川二箇所の引手茶屋に借財を生じたためである。子之助時に二十歳であった。
然るに竜池の遊所通は罷《や》んでも、子之助のは罷まなかった。天保十三年三月の頃から五|分月題《ぶさかやき》の子之助は丁稚《でっち》兼吉を連れて、鳥羽屋を出《い》で、手習の師匠松本、狂歌の宗匠梅屋鶴寿等を訪《と》うことになったが、その帰途には兼吉を先に還らせて、自分は劇場妓楼に立ち寄った。兼吉は綽号《あだな》を鳥羽絵小僧と云った。想うに鳥羽屋の小僧で、容貌《ようぼう》が奇怪であったからの名であろう。即ち後の仮名垣魯文《かながきろぶん》である。
劇場は木挽町《こびきちょう》の河原崎座であった。贔屓《ひいき》の俳優は八代目団十郎である。作者|勝諺蔵《かつげんぞう》をば部屋に訪うて交《まじわり》を結んだ。諺蔵は後の河竹新七である。
妓楼は主に品川の島崎|湊屋《みなとや》、土蔵相摸《どぞうさがみ》で、引手茶屋は大野屋万治方であった。湊屋のお染は尤《もっと》も久しい馴染であった。
取巻は河原崎座の作者岩井紫玉、同座附茶屋の主人武田屋馬平、品川の幇間《ほうかん》富本|登名太夫《となたゆう》、同《おなじく》熨斗太夫《のしたゆう》、桜川善二坊、その他俳諧師|牧乙芽《まきおつが》、力士|勢藤吾《いきおいとうご》等であった。紫玉は後の正伝節家元春富士、乙芽は後の冬映である。
六
竜池の水引を掛けた祝儀は壮観ではあっても、費す所は甚だ多きに至らなかった。これに反して子之助は、人に※[#「嚊のつくり−自」、第4水準2−81−24]《あた》うる物に種々の趣向を凝らし、その値の高下を問わなかった。丸利、丸上、山田屋等の袋物店に払う紙入、煙草入の代は莫大《ばくだい》であった。既にして更衣《ころもがえ》の節となった。子之助は単《ひとえ》羽織と袷《あわせ》とを遊所に持て来させて著更え、脱ぎ棄てた古渡唐桟《こわたりとうざん》の袷羽織、糸織の綿入、琉球紬《りゅうきゅうつむぎ》の下著、縮緬《ちりめん》の胴著等を籤引《くじびき》で幇間芸妓に与えた。
竜池は子之助の遊蕩がいよいよ募って、三村氏が放任して顧みぬことを聞き知り、自ら手を下してこれを制せようとした。六月中旬の事である。子之助が品川の湊屋にいると、竜池は四手《よつで》を飛ばして大野屋に来た。そして子之助に急用があるから来いと言って遣った。
子之助は父を畏《おそ》れて、湊屋の下座敷から庭に飛び下り、海岸の浅瀬を渉《わた》って逃げようとしたが、使のものに見附けられて捉《とら》えられた。
竜池は子之助を拉《らっ》して帰り、幸町《さいわいちょう》の持地面に置いてある差配人佐兵衛に預けた。そして勘当の手続をしようとした。しかし手代等の扱によって、子之助は山城河岸に帰り、父の監督を受けることとなった。
幸《さいわい》に竜池は偽善を以て子を篏制《かんせい》しようとはしなかった。自分の地味な遊には子之助を侍せしめて、これに教うるに酒色の筵《むしろ》にあっても品位を墜《おと》さぬ心掛を以てした。子之助の態度は此《ここ》に一変した。これが子之助の二十一歳になった時の事である。
竜池の贔屓にした七代目団十郎は、この年六月二十二日に江戸を追放せられ、竜池の親しい友為永春水はこの年七月十三日に牢死《ろうし》した。これも間接に山城河岸の父子をして忌諱《きき》を知らしむる媒《なかだち》となったであろう。
これから安政三年に至るまでの間には記すべき事が少い。姑《しばら》く二三の消息を注すれば、先ず天保十四年に河原崎座が、先に移った中村、市村両座と共に猿若町《さるわかちょう》に移って、勝諺蔵が立作者|柴晋助《しばしんすけ》となった。芝宇田川町にいたからである。河竹新七の名は暫《しば》らく立ってから、三代目桜田治助の勧に依って襲《つ》いだ。嘉永元年六月二十七日に、子之助の祖父伊兵衛が七十余歳で歿した。法諡《ほうし》は繁誉宝寿徳昌善士である。墓は願行寺|先塋《せんえい》の中にある。竜池の師、静廬もこの年八十三歳で歿した。寿阿弥曇※[#「大/周」、第3水準1−15−73]《じゅあみどんちょう》の歿したのも同年である。寿阿弥と竜池父子とは相識ではあっただろうが、その交《まじわり》の奈何《いかん》を詳《つまびらか》にしない。しかし後に子之助は清浄光寺から寿阿弥号を受けて、間接に真志屋の阿弥号を襲いだのである。三年に竜池の友諸持が都派を脱して宇治紫文と称した。安政元年に竜池父子の贔屓にした八代目団十郎が自刃した。二年は地震の年である。江戸遊所の不景気は未曾有で、幇間は露肆《ろし》に天麩羅《てんぷら》を売り、町芸妓は葭簀張《よしずばり》におでん燗酒《かんざけ》を鬻《ひさ》いだそうである。山城河岸の雨露はこれを霑《うるお》し尽すことが出来なかったであろう。
安政三年の夏竜池は病に臥《ふ》した。次で九月二十日に世を去った。法諡は白誉雲外竜池善士と云う。また願行寺に葬られた。手代等は若檀那子之助の前途を気遣って、大坂町に書肆を開いている子之助の姉婿《あねむこ》摂津国屋伊三郎を迎えて、家督相続をさせようとした。子之助の姉は上杉家の奥を下《さが》って婿を取り、分家を立てていたのである。然るに子之助の継母三村氏すみは、義理ある子之助を廃嫡の否運に逢わせては、自分の庇護《ひご》が至らぬように世間の目から見られようと云って、手代等の議を拒んだ。子之助は遂《つい》に山城河岸の本家を嗣《つ》いだ。時に年三十五である。ついでに云う、竜池の狂歌の師初代弥生庵|雛麿《ひなまろ》は竜池と同年同月に歿した。
七
父竜池の後を継いで二世藤次郎となった子之助は、継母三村氏すみその他の親族、最故参の金兵衛以下大勢の手代の手前があるので、暫くは謹慎を守っていたが、四十九日の配物《くばりもの》が済んだ頃から遊所に通いはじめ、漸《ようや》く馴れては傍人《ぼうじん》の思わくをも顧みぬようになった。女房はまだ部屋住でいた時に迎えて、もう子供が二人ある。里方は深川木場の遠州屋太右衛門である。しかし女房も岳父《しゅうと》もただ手を束《つか》ねて傍看する外無かった。
王侯貴人が往々文芸の士を羅致《らち》して、声威を張り儀容を飾る具となすように、藤次郎は俳諧師、狂歌師、狂言作者、書家、彫工、画工と交って、その多数を待つことほとんど幇間と択《えら》ぶことが無かった。父竜池は毎《つね》に狂歌を弄《もてあそ》んだが、藤次郎はこれに反して主《おも》に俳諧に遊んだ。その友を集《つど》えた席は、長谷川町の梅の家、万町《よろずちょう》の柏木亭《かしわぎてい》等であった。
藤次郎は子之助時代に鯉角《りかく》と号し、一に李蠖《りかく》とも署していたが、家を継いだ後、関|為山《いざん》から梅の本の称を受け、更に晋永機《しんえいき》に晋の字を貰い、自ら香以と号し、また好以、交以、孝以とも署した。たまたま狂歌を作るときは何廼屋《なにのや》と署した。
劇場では香以は河原崎権十郎を贔屓にした。後の九代目団十郎である。香以は贔屓の連中を組織して、荒磯連《あらいそれん》と名《なづ》け、その掟文《おきてぶみ》と云うものを勝田諸持に書かせた。九代目の他日の成功は半香以の庇蔭《ひいん》に因《よ》ったのである。また八代目が自刃した後、権十郎の実父七代目団十郎の寿海老人が江戸に還っていたので、香以はこれをも贔屓にし
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