間の障子は所々|濡《ぬ》らした指尖で穿たれた。
 この時|留女《とめおんな》として現われたのは芸者きわである。豊花と鶴彦とを次の間に連れて往って、小稲花鳥へ百両ずつの内済金を出すことに話を附け、それを香以に取り次いだ。しかし香以の懐《ふところ》には即金二百両の持合せがなかった。
 きわは豊花を待たせて置いて、稲本を馳《は》せ出《い》で、兼て香以の恩を受けた有中、米八、権平等を座敷々々に歴訪して、財布の底をはたかせたが、その金は合計五十両には足らなかった。きわは高利の金を借りて不足を補った。
 香以は闇《やみ》に紛れて茶屋へ引き取り、きわには辞《ことば》を尽して謝し、「金は店からすぐ届ける」と云い畢《おわ》って四手《よつで》に乗り、山城河岸へ急がせた。
 これは香以が三十八歳の時の事であった。この年三月二十三日に、贔屓役者七代目団十郎の寿海老人が、猿若町一丁目の家に歿した。香以は鶴寿と謀って追善の摺物《すりもの》を配った。画は蓮生坊《れんしょうぼう》に扮した肖像で、豊国がかいた。香以の追悼の句の中に「かへりみる春の姿や海老《えび》の殻《から》」と云うのがあった。
 文久元年の夏深川に仮宅のある時であった。香以は旧交を温《たず》ねて玄魚、魯文の二人を数寄屋町《すきやちょう》の島村半七方に招いた。取持には有中、米八が来た。宴を撤してから舟を鞘町河岸《さやちょうがし》に艤《ぎ》し、松井町の稲本に往った。小稲花鳥はもういなかった。三代目小稲と称していたのは前の小稲の突出《つきだし》右近である。香以は玄魚と魯文との相方《あいかた》を極めさせ、自分は有中、米八を連れて辞し去った。
 この年香以は四十歳であった。香以は旧に依って讌遊《えんゆう》を事としながら、漸く自己の運命を知るに至った。「年四十露に気の附く花野|哉《かな》。」山城河岸の酒席に森|枳園《きえん》が人を叱《しっ》したと云う話も、この頃の事であったらしい。
 文久二年は山城河岸没落の年である。香以は店を継母に渡し、自分は隠居して店から為送《しおくり》を受けることとし、妾鶴には暇《いとま》を遣《や》り、妻ふさと倅《せがれ》慶次郎とを連れて、浅草馬道の猿寺《さるでら》境内に移った。蕭条《しょうじょう》たる草の庵《いお》の門《かど》には梅阿弥の標札が掛かっていた。

       十一

 猿寺の侘住《わびずま》いに遷った香以は、山城河岸の店から受ける為送《しおくり》の補足を売文の一途に求めた。河竹新七の紹介に由って、市村座の作者になり、番附に梅阿弥の名を列する。梅の本の名を以てして俳諧の判をする。何廼屋《なにのや》の名を以てして狂歌の判をする。注文に依って店開の散しを書く。此等は固《もと》よりこの時に始まったのではない。文淵堂《ぶんえんどう》所蔵の「狂歌本朝二十四孝」「狂歌調子笛」等は早く嘉永六年に印刷せられたものである。ただそれが職業となったのである。しかしこの職業は幾何《いくばく》の利益をも齎《もたら》さなかった。
 これに反して所謂《いわゆる》庵室は昔馴染の芸人等の遊所となった。俳優中では市川新車、同《おなじく》市蔵、同九蔵、板東|家橘《かきつ》等が常の客であった。新車は後の門之助、家橘は後の五代目菊五郎である。香以は今芸人等と対等の交際をする身の上になって、祝儀と云うものは出さぬが、これに饗《きょう》する酒飯の価は聊《いささか》の売文銭の能《よ》く償う所ではなかった。何時頃《いつごろ》からの事か知らぬが、香以の家の客には必ず膳《ぜん》が据えられ、菜《さい》は塩辛《しおから》など一二品に過ぎぬが、膳の一隅には必ず小い紙包が置いてあった。それには二分金がはいっていたそうである。香以はまた負債に困《くるし》められて、猿寺の収容陣地から更に退却しなくてはならなくなった。これが香以の四十一歳になった年である。
 文久三年の春であった。親戚某が世話をして、香以は下総国千葉郡寒川の白旗八幡前に退隠した。寒川は漁村である。文字を識って俳諧の心得などのあるものは、僅《わずか》に二三人に過ぎない。香以は浜の砂地に土俵を作らせ、村の子供を集めて相撲を取らせて、勝ったものには天保銭一枚の纏頭《はな》を遣りなどした。
 しかし寒川と日本橋との間をば魚介を運ぶ舟が往来する。それに託して河竹新七、永機、竺仙等は書を寄せて香以を慰めた。またたまには便船して自ら訪うこともあった。当時この人々は濃紫のおふさが木綿著物に襷《たすき》を掛けて、かいがいしく立ち働くのを見て感心したそうである。「針持つて遊女老いけり雨の月」は香以が実境の句であった。
 ある日天気が好くて海が穏《おだやか》なので、香以は浜辺に出ていた。そこへ一隻の舟が著いて、中から江戸の相撲が大勢出た。香以が物めずらしさに顔を見ると、小結以上の知人《しるひと》もいた。相撲は香以を認むるや否や頷《うなず》き合って進み寄って、砂の上に平伏した。「これはこれは、河岸の檀那、御機嫌宜《ごきげんよろ》しゅう、こちらに御逗留《ごとうりゅう》でございますか。どうぞ初日には御見物を。」相撲を迎えに出た土地の人達は、皆驚いて目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。「摂津国屋の隠居はえらい人だと見えて、関取衆が土下座をさっしゃる」と囁き合ったそうである。香以は交肴《まぜざかな》一|籠《かご》を相撲等に贈って、これがために一月余の節倹をした。
 香以は文久三年から慶応二年まで、足掛四年寒川に住んでいた。四十二歳から四十五歳に至る間である。この間元治元年には梅屋鶴寿が歿した。慶応元年には辻花雪が歿した。花雪は狂歌合と云うことを始めた人である。
 慶応二年に香以は山城河岸に帰った。今は家業の振わぬ店の隠居で、昔の友にも往来《ゆきき》するものが少かった。この頃新堀に後藤進一と云うものがあって、新堀小僧の綽名《あだな》を花柳の巷《ちまた》に歌われ、頗《すこぶる》豪遊に誇っていた。後藤は香以の帰京を聞いて、先輩としてこれを饗せむと思い立ち、木場の岡田|竜吟《りゅうぎん》と云うものに諮《はか》り、香以が昔の取巻、芳年、梅年、紫玉、竺仙等を駆り集め、香以を新橋の料理屋に招いた。香以は「倒されたる大いなるもの」として、この席に面《おもて》を曝《さら》すことを喜ばなかったが、忍んで後藤等の請を容れた。

       十二

 主人側の後藤等はこの宴会の興を添えむために、当時流行の幇間|松廼家花山《まつのやかざん》を呼んだ。花山は裸踊を以て名を博した男である。犢鼻褌《とくびこん》をだに著けずに真裸になって踊った。しかのみならず裸のままで筆にし難い事をもした。主人側のこれを呼んだのは、固《もと》より流に随って波を揚げたのであるが、その中で紫玉一人は兼て花山の所為《しょい》を悪《にく》んでいたので、もし我目前で尾籠《びろう》の振舞をしたら、懲して遣ろうと待ち構えていた。
 芳年が紫玉の意を忖《はか》って、これを花山に告げた。花山は援《すくい》を茶弘に求めた。茶弘は新橋|界隈《かいわい》に幅を利かせていた侠客《きょうかく》で、花山が親分として戴いていたのである。
 茶弘は花山の請を容れた。筵会の場所は自分の縄張の内である。単身これに赴いて将《まさ》に屈辱を受けんとしているものは自分の子分である。この請を容れぬわけには行かない。しかし何の手段を以てこれを救おうか。茶弘はこう考えて、最も簡易な買収の法を取った。後藤の取巻一同には茶弘の祝儀包が配られた。
 紫玉は包を座上に抛《なげう》って茶弘を罵《ののし》った。後藤が折角の催もこの殺風景のために興を破られて客は程なく散じた。
 香以は累を後藤に及さんことを恐れて、翌日紫玉を家に呼んで諭した。紫玉をして罪を茶弘に謝せしめようとしたのである。しかし紫玉は聴かなかった。材能《さいのう》伎芸《ぎげい》を以て奉承するは男芸者の職分である。廉恥を棄てて金銭を貪るものと歯《し》するは、その敢《あえ》てせざる所である。紫玉が花山を排したのは曲が花山にあったのである。紫玉が祝儀を卻《しりぞ》けたのは曲が茶弘にあったのである。紫玉は堅くこの説を持して動かなかった。
 香以は已《や》むことを得ぬので、人に託して後藤と茶弘との和解を謀った。二人は久保町の売茶亭に会見して、所謂《いわゆる》手打をしたそうである。これは香以が四十五歳の時の事である。後藤は後に名を庄吉と改めて米の仲買を業としていた。
 慶応三年に辻花雪三回忌の影画合《かげえあわせ》「くまなきかげ」が刊行せられて、香以は自らこれに序した。巻中の香以の影画には上《かみ》に引いた「針持つて」の句の短冊が貼《お》してある。わたくしの看たこの書は文淵堂の所蔵である。
 明治元年に山城河岸の店は鎖《とざ》された。当時香以の姉夫《あねむこ》は細木伊三郎と称して、山王町に書肆《しょし》を開いていた。山王町は今の宋十郎町である。香以はふさと慶次郎とを連れて、この伊三郎方に同居した。時に年四十七であった。
 明治三年九月に香以は病に臥して、十日に瞑目《めいもく》した。年四十九。法諡《ほうし》は梅余香以居士。願行寺なる父祖の塋域《えいいき》に葬られた。遺稿の中に。
[#ここから2字下げ]
冬枯れてゐたは貴様か梅の花
紅梅に雪も好けれど加減もの
只遊ぶ萍《うきくさ》も経る月日かな
つごもりや由なき芥子《けし》の花あかり
盗まれむ葱《ねぎ》も作りて後の月
待事のありげに残る蚤《のみ》蚊《か》かな
値《ね》の高い水に砂吐く蜆《しゞみ》かな
地に著かぬ中ぞ長閑《のど》けき舞ふ木葉
 自像
花に売る一本物や江戸鰹《えどがつを》
 自傲《じごう》
霧晴て皆こちら向く山のなり
 寒川《さむかわ》
鰺切《あぢきり》の鈍くも光る寒さかな
 所思
わびぬれば河豚《ふぐ》を見棄てて菜大根
 絶筆
己《おの》れにも厭《あ》きての上か破芭蕉《やればせう》
[#ここで字下げ終わり]
 明治四年十月十日の事である。親戚の営むべき一周忌にわざと一月遅れて、昔香以の恩蔭を被《こうむ》った人々が、団子坂の小倉是阿弥の家に集まって旧を話し、打連れて墓に詣でた。諸持、鶴寿、花雪、交山は死して既に久しく、書家|董斎《とうさい》の如きは、香以と同じ年の四月に死んでいる。狩野晏川《かのうあんせん》、河竹新七、其角堂《きかくどう》永機、竺仙、紫玉、善孝等はこの群《むれ》の中《うち》にいた。
[#ここから2字下げ]
此墓の落葉むかしの小判哉  永機
[#ここで字下げ終わり]
 香以去後に凋落《ちょうらく》して行く遊仲間のさまを示さむがために、此に二三の人の歿年を列記する。為山は明治十一年、玄漁は十三年、隣春《ちかはる》は十五年、等栽は二十三年、是真は二十四年、晏川《あんせん》と清満とは二十五年、永機は三十七年である。
 香以の履歴は主《おも》に資料を仮名垣魯文の「再来紀文廓花街」に仰いだ。今紀文|曲輪《くるわ》の花道と訓《よ》むのだそうである。鈴木春浦さんが小説の種にもと云って貸してくれた本を、遺忘のために手抄して置いたのである。
 その他根本|吐芳《とほう》さんの「大通人香以」の如きも、わたくしは参照した。しかし根本氏といえども、わたくしと同じく魯文の文に拠ったことであろう。鈴木氏の筆記に係《かか》る益田香遠、久保田米仙二家の談話、弟潤三郎の蔵儲《ぞうちょ》に係る竺仙事橋本素行の刊本「恩」はわたくしのために有益であった。

       十三

 本郷の追分を第一高等学校の木柵《もくさく》に沿うて東へ折れ、更に北へ曲る角が西教寺と云う寺である。西教寺の門前を過ぎて右に桐《きり》の花の咲く寄宿舎の横手を見つつ行けば、三四軒の店が並んでいて、また一つ寺がある。これが願行寺である。
 願行寺は門が露次の奥に南向に附いていて、道を隔てて寄宿舎と対しているのは墓地の外囲《そとがこい》である。この外囲が本《もと》は疎《まばら》な生垣で、大小高低さまざまの墓石が、道行人の目に触れていた。今は西教寺も願行寺も修築せられ、願行寺の生垣は一変して堅固な石塀《いしべい
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング