くしを誘《いざな》って崖の上へ見せに往った。わたくしはこの崖をもこの小家をも兼て知っていたが、まだ父程に心を留めては見なかったのである。眺望は好い。家は市隠の居処とも謂うべき家である。そして窓の竹格子の裡には綺麗な比丘尼がいた。比丘尼はもう五十を越していたであろう。もし媼《おうな》をも美人と称することが出来るなら、この比丘尼は美人であったと云いたい。
 父はわたくしの同意を得てから、この家を買おうとして、家の持主の誰《たれ》なるかを問うことにした。団子坂の下に当時千樹園と云う植木屋があった。父は千樹園の主人を識っていたので、比丘尼の家の事を問うた。
 千樹園はこう云った。崖の上の小家は今住んでいる媼の所有である。媼は高木ぎんと云って、小倉と云うものの身寄である。小倉は本《もと》質屋で、隠居してから香以散人の取巻をしていたが、あの家で世を去った。媼は多分あの家を売ることを惜まぬであろうと云った。

       四

 千樹園が世話をして、崖の上の小家を買う相談は、意外に容易《たやす》く纏《まと》まった。高木ぎんの地所は本《もと》やや広い角地面であったのを、角だけ先ず売ったので、跡は崖に面した小家のある方から、団子坂上の街に面した方へ鉤形《かぎなり》に残っている。その街に面した処に小さい町家が二軒ある。一つは地所も家も高木のもので、貸店《かしだな》になって居り、一つは高木の地所に鳶頭《とびがしら》の石田が家を建てて住んでいる。ぎんは取引が済んでこの貸店に移った。
 父は千住の大きい家を畳んで、崖の上の小家に越して来た。千住の家は徳川将軍が鷹野《たかの》に出る時、小休所《こやすみじょ》にしたと云う岡田氏の家で、これにほとんど小さい病院のような設備がしてあったのである。父は小家に入って「身軽になったようだ」と云った。そこへわたくしは太田の原の借家から来て一しょになった。
 小家は三間に台所が附いている。三間は六畳に、三畳に、四畳半で、四畳半は茶室造である。後にこの茶室が父の終焉《しゅうえん》の所となった。
 茶室の隣の三畳に反古張《ほぐばり》の襖《ふすま》が二枚立ててある。反古は俳文の紀行で、文字と挿画《さしえ》とが相半《あいなかば》している。巻首には香以散人の半身像がある。草画ではあるが、円顔の胖大漢《はんだいかん》だと云うことだけは看取せられる。
 崖の上の小家は父の歿後に敗屋となって、補繕し難いために毀《こぼ》たれた。反古張りの襖も剥落《はくらく》し尽していた。今にして思えばこれは安政六年の夏に、香以が三十八歳で江の島、鎌倉を廻《めぐ》った紀行の草稿であったらしい。
 崖の上の小家の址《あと》は、今は過半空地になっている。大正四年に母が七十の賀をする代《かわり》に、部屋を建てて貰《もら》いたいと云ったので、わたくしは母の指図に従って四畳半の見積を大工に命じた。そのうち母が大病になった。わたくしは母の存命中に部屋を落成させようとして工事を急いだ。五年三月に部屋は出来て、壁の中塗だけ済んだ。母はこれに臥所《ふしど》を徙《うつ》して喜んだが、間もなく世を去った。今わたくしが書斎にしているのがこの部屋で、壁は中塗のままである。昔崖の上の小家の台所であった辺が、この部屋の敷地である。
 父母と共に崖の上の小家に移った時から、わたくしは香以の名を牢記《ろうき》している。既にしてわたくしはこの家の旧主人小倉が後に名を是阿弥《ぜあみ》と云ったことを知った。香以は相摸国《さがみのくに》高座郡藤沢の清浄光寺の遊行上人《ゆうぎょうしょうにん》から、許多《あまた》の阿弥号を受けて、自ら寿阿弥と称し、次でこれを河竹其水《かわたけきすい》に譲って梅阿弥《ばいあみ》と称し、その後また方阿弥と改め、その他の阿弥号は取巻の人々に分贈した。是阿弥はその一つだそうである。
 香以は明治三年九月十日に歿した。翌四年の一周忌を九月十日に親戚《しんせき》がした。後に取巻の人々は十月十日を期して、小倉是阿弥の家に集まって仏事を営み、それから駒込《こまごめ》願行寺《がんぎょうじ》の香以が墓に詣《もう》でた。この法要の場所は即《すなわ》ち崖の上の小家であったのである。

       五

 香以の子之助は少年の時|経《けい》を北静廬《きたせいろ》に学び、筆札を松本|董斎《とうさい》に学んだ。静廬は子之助が十四歳の時、既に七十に達して、竹川町西裏町に隠居していた。子之助は纔《わずか》に字を識るに及んで、主に老荘の道を問うたそうである。董斎は董其昌《とうきしょう》風の書を以って名を得た人で、本石町塩河岸に住んでいた。
 子之助が生れてから人と成るまでの間には、年月を詳《つまびらか》にすべき事実が甚だ少い。文政六年には父竜池の師|秦《はた》星池が六十一歳で歿した。子之助が甫《はじ
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