りかた》の代である。
父伊兵衛は恐らくは帳簿と書出とにしか文字を書いたことはあるまい。然《しか》るに竜池は秦星池《はたせいち》を師として手習をした。狂歌は初代|弥生庵雛麿《やよいあんひなまろ》の門人で雛亀《ひなかめ》と称し、晩年には桃《もも》の本鶴廬《もとかくろ》また源仙《げんせん》と云った。また俳諧をもして仙塢《せんう》と号した。
父伊兵衛は恐らくは遊所に足を入れなかったであろう。然るに竜池は劇場に往き、妓楼《ぎろう》に往った。竜池は中村、市村、森田の三座に見物に往く毎に、名題《なだい》役者を茶屋に呼んで杯を取らせた。妓楼は深川、吉原を始とし、品川へも内藤新宿へも往った。深川での相手は山本の勘八と云う老妓であった。吉原では久喜《ひさき》万字屋の明石《あかし》と云うお職であった。
竜池が遊ぶ時の取巻は深川の遊民であった。桜川由次郎、鳥羽屋小三次、十寸見《ますみ》和十、乾坤坊《けんこんぼう》良斎、岩窪《いわくぼ》北渓、尾の丸|小兼《こかね》、竹内《ちくない》、三竺《さんちく》、喜斎等がその主なるものである。由次郎は後に吉原に遷って二代目|善孝《ぜんこう》と云った。和十は河東節《かとうぶし》の太夫、良斎は落語家、北渓は狩野《かの》家から出て北斎門に入った浮世絵師、竹内は医師、三竺、喜斎は按摩《あんま》である。
竜池は祝儀の金を奉書に裹《つつ》み、水引を掛けて、大三方に堆《うずたか》く積み上げて出させた。
竜池は涓滴《けんてき》の量だになかった。杯は手に取っても、飲むまねをするに過ぎなかった。また未《いま》だかつて妓楼に宿泊したことがなかった。
為永春水はまだ三鷺《さんろ》と云い、楚満人《そまびと》と云った時代から竜池と相識になってこの遊の供をした。竜池が人情本中に名を留《とど》むるに至ったのは此《ここ》に本《もと》づいている。
竜池は我名の此《かく》の如くに伝播《でんぱ》せらるるを忌まなかった。啻《ただ》にそれのみではない。竜池は自ら津国名所と題する小冊子を著《あらわ》して印刷せしめ、これを知友に頒《わか》った。これは自分の遊の取巻供を名所に見立てたもので、北渓の画が挿《さしはさ》んであった。
文政五年に竜池の妻が男子を生んだ。これは摂津国屋の嗣子で、小字《おさなな》を子之助《ねのすけ》と云った。文政五年は午《うま》であるので、俗習に循《したが》って、それから七つ目の子《ね》を以て[#「以て」は底本では「似て」]名となしたのである。二代目津藤として出藍《しゅつらん》の誉《ほまれ》をいかがわしい境に馳せた香以散人はこの子之助である。
三
わたくしが香以の名を聞いたのは、彼《かの》人情本によって津藤の名を聞いたのと、余り遅速は無かったらしい。否《いな》あるいは同時であったかも知れない。その後にはこの名のわたくしの耳目に触れたことが幾度《いくたび》であったか知れぬが、わたくしは始終深く心に留めずに、忽《たちま》ち聞き忽ち忘れていた。そしてその間《あいだ》竜池香以の父子を混同していた。
それからある時香以と云う名が、わたくしの記憶に常住することになった。それは今住んでいる団子坂の家に入った時からの事である。
この家は香以に縁故のある家で、それを見出したのは当時存命していたわたくしの父である。父は千住で医業をしていたが、それを廃《や》めてわたくしと同居しようとおもった。そして日々家を捜して歩いた。その時この家は眺望の好《い》い家として父の目に止まった。
団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道《そばみち》に似た小径《こみち》がある。これを藪下《やぶした》の道と云う。そして所謂《いわゆる》藪下の人家は、当時根津の社《やしろ》に近く、この道の東側のみを占めていた。これに反して団子坂に近い処には、道の東側に人家が無く、道は崖《がけ》の上を横切っていた。この家の前身は小径を隔ててその崖に臨んだ板葺《いたぶき》の小家であった。
崖の上は向岡《むこうがおか》から王子に連る丘陵である。そして崖の下の畠《はたけ》や水田を隔てて、上野の山と相対している。彼小家の前に立って望めば、右手に上野の山の端《はな》が見え、この端と向岡との間が豁然《かつぜん》として開けて、そこは遠く地平線に接する人家の海である。今のわたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見えるのは、この方角である。
父はこの小家に目を著けて、度々崖の上へ見に往った。小家には崖に面する窓があって、窓の裡《うち》にはいつも円頂の媼《おうな》がいた。「綺麗な比丘尼《びくに》」と父は云った。
父は切絵図を調べて、綺麗な比丘尼の家が、本《もと》世尊院の境内であったことを知った。世尊院は今旧境内の過半を失って、西の隅に片寄っている。
父はわた
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