暮れましたから明朝の事にいたしましょう」と、翁は答えた。
わたくしはその後願行寺の住職を訪おうともせずにいて、遂に香以の裔の事を詳《つまびらか》にせぬままに、この稿を終ってしまった。頃日《このごろ》高橋邦太郎さんに聞けば、文士芥川龍之介さんは香以の親戚だそうである。もし芥川氏の手に藉《よ》ってこの稿の謬《あやまり》を匡《ただ》すことを得ば幸であろう。
十五
疇昔《ちゅうせき》の日わたくしは鹿嶋屋清兵衛《かじまやせいべえ》さんの逸事に本づいて、「百物語」を著《あらわ》した。文中わたくしの鹿嶋屋を斥《さ》す詞《ことば》に、やや論讃に類するものがあった時、一の批評家がわたくしの「僭越」を責めた。その詳《つまびらか》なることは今わたくしの記憶に存せぬが、彼批評家には必ずや文集があるべく、これを繙《ひもと》いたら、百物語評を検出することもまた容易であろう。
鹿嶋屋は「大尽」である。寒生のわたくしがその境界を窺《うかが》い知ることを得ぬのは、乞丐《こつがい》が帝王の襟度《きんど》を忖度《そんたく》することを得ぬと同じである。是《ここ》においてや僭越の誚《そしり》が生ずる。
人生の評価は千殊万別である。父が北千住に居った時、家に一|婢《ひ》があった。肥白《ひはく》にして愛想好く、挙止もまた都雅であった。然るにこの婢の言う所は、一々わたくし共兄弟姉妹の耳を驚かした。
婢は幼《いとけな》くして吉原の大籬《おおまがき》に事《つか》え、忠実を以て称せられていた。その千住の親里に帰ったのは、年二十を踰《こ》えた後《のち》である。
婢は「おいらん」を以て人間の最《もっとも》尊貴なるものとしている。公侯伯子男の華族さんも、大臣次官の官員さんも婢がためには皆野暮なお客である。貸座敷の高楼大厦とその中《うち》にある奴婢《ぬひ》臧獲《ぞうかく》とは、おいらんを奉承し装飾する所以《ゆえん》の具で、貸座敷の主人はいかに色を壮《さかん》にし威を振うとも此等《これら》の雑輩に長たるものに過ぎない。
婢の思量感懐は悉《ことごと》くおいらんを中心として発動している。婢の目を以て視れば、吉原は文、吉原以外は野、吉原は華、吉原以外は夷《い》である。それは吉原がおいらんのいますレジダンスだからである。
「よしや、何かお話をしておくれ」と弟が云う。よしは婢の名であった。
「さあ、いらっしゃい。お話をいたしましょう。」よしは台所の板の間におとなしくすわって、弟を円く堆《うずだか》い膝《ひざ》の上に招き寄せる。声は清く朗《ほがらか》である。「昔おいらんがございました。そのおいらんは目っかちでございました。そこへお客がまいりました。そのお客はあばたでございました。朝お客が帰る時、おいらんが送って出て、柚子《ゆず》来なますえと申しました。そら、あばたの顔は柚子見たいでございましょう。するとお客が、目っかち四っかち時分には来ようよと申しましたとさ。」よしのお伽話にはおいらんとお客とのみが人物として出るのである。
人生の評価は千殊万別である。仏も王とすべく、魔も王とすべきである。大尽王香以、清兵衛を立つるときは、微塵数のパルヴニュウは皆守銭奴となって懺悔《ざんげ》し、おいらん王を立つるときは、貞婦烈女も賢妻良母も皆わけしらずのおぼことなって首を俛《た》るるであろう。
名僧智識の宗教家王たるべきが如く、小説家王たるべきものもあろう。碩学《せきがく》大儒《たいじゅ》の哲学者王たるべきが如く、批評家王たるべきものもあろう。出版業者王たるべきものもあろう。新聞経営者王たるべきものもあろう。人生の評価は千殊万別である。
わたくしは伊沢蘭軒、渋江抽斎を伝した後、たまたま来ってこの細木香以を伝した。※[#「車+全」、583−6]才《せんさい》わたくしの如きものが敢て文を作れば、その選ぶ所の対象の何たるを問わず、また努《つとめ》て論評に渉《わた》ることを避くるに拘《かかわ》らず、僭越は免れざる所である。
[#地から1字上げ](大正六年九・十月)
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右の細木香以伝は匆卒《そうそつ》に稿を起したので、多少の誤謬《ごびゅう》を免れなかった。わたくしは此《ここ》にこれを訂正して置きたい。
香以伝の末にわたくしは芥川龍之介さんが、香以の族人だと云うことを附記した。幸に芥川氏はわたくしに書を寄せ、またわたくしを来訪してくれた。これは本初対面の客ではない。打絶えていただけの事である。
芥川氏のいわく。香以には姉があった。その婿《むこ》が山王町の書肆《しょし》伊三郎である。そして香以は晩年をこの夫婦の家に送った。
伊三郎の女を儔《とも》と云った。儔は芥川氏に適《ゆ》いた。龍之介さんは儔の生んだ子である。龍之介さんの著《あ
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