》となった。ただ空に聳《そび》えて鬱蒼《うっそう》たる古木の両三株がその上を蔽《おお》うているだけが、昔の姿を存しているのである。
 わたくしはある日香以が一家の墓を訪おうと思って、願行寺の門を入った。門内の杉の木立の中に、紺飛白《こんがすり》の浴衣《ゆかた》を著た壮漢が鉄唖鈴《てつあれい》を振っていて、人の来たのを顧みだにしない。本堂の東側から北裏へ掛けて並び立っている墓石を一つ一つ見て歩いた。日はもう傾きかかって来るに、尋ぬる墓表は見附からなかった。
 忽《たちま》ち穉子《おさなご》の笑う声がしたので、わたくしは振り向いて見た。顔容《かおかたち》の美くしい女が子を抱いてたたずんで、わたくしの墓表の文字を読んで歩くのを見ていた。
 わたくしは捜索を中止して、「あなたはお寺の方ですか」と問うた。
「はい。どなたのお墓をお尋《たずね》なさいますのです。」女の声音《こわね》は顔色と共にはればれとしていて、陰鬱なる周囲の光景には調和していなかった。
「摂津国屋と云うものです。苗字はさいきでしょうか。」魯文の記事には「さいき」とも「ほそき」とも傍訓がしてあるが、わたくしは「さいき」が正しい訓《よみ》であるのを、たまたま植字者が「ほそき」と誤ったものかと思っていたのである。
「では細いと云う字を書くのでしょう。」この女は文字を識っていた。
「そうです。御存じでしょうか。」
「ええ、存じています。あの衝当《つきあたり》にあるのが摂津国屋の墓でございます。」抱かれている穉子《おさなご》はわたくしを見て、頻《しきり》に笑って跳《おど》り上がった。
 わたくしは女に謝して墓に詣《まい》った。わたくしはなんだか新教の牧師の妻とでも語ったような感じがした。
 本堂の東側の中程に、真直《まっすぐ》に石塀に向って通じている小径《こみち》があって、その衝当《つきあたり》に塀を背にし西に面して立っているのが、香以が一家の墓である。
 向って左側には石燈籠が立ててあって、それに「津国屋」と刻してある。
 墓は正方形に近く、やや横の広い面の石に、上下二段に許多《あまた》の戒名が彫《え》り附けてあって、下には各《おのおの》命日が註してある。

       十四

 摂津国屋の墓石には、遠く祖先に溯《さかのぼ》って戒名が列記してあるので、香以の祖父から香以自身までの法諡《ほうし》は下列の左の隅に並んでいる。
 詣《もう》で畢《おわ》って帰る時、わたくしはまた子を抱いた女の側《そば》を通らなくてはならなかった。わたくしは女に問うた。
「親類の人が参詣《さんけい》しますか。」
「ええ。余所《よそ》へおよめに往った方が一人残っていなすって、忌日には来られます。芝の炭屋さんだそうで、たしか新原元三郎と云う人のお上《かみ》さんだと存じます。住職は好く存じていますが、只今留守でございます。なんなら西教寺とこちらとの間に花屋が住っていますから、聞いて御覧なさいまし。」
 わたくしは再び女に謝して寺を出た。そして往来に立ち止って花屋を物色した。
 西教寺と願行寺との間の町家は皆新築の小さい店になっている。その間に挟まれて、ほとんど家とは云い難い程の小家の古びたのが一軒あって、葭簀《よしず》が立て廻してある。わたくしはそれを見て、かつてその前に樒《しきみ》のあるのを見たことを想起した。
 わたくしは葭簀の中に這入った。家の内はもうほとんど真暗である。瞳《ひとみ》を定めて見れば、老いさらぼうた翁媼《おううん》が蹲《うずくま》っている。家も人も偶然開化の舌に舐《な》め残されたかと感ぜられる。またお伽話《とぎばなし》の空気が闇《やみ》の裡《うち》に浮動しているかとも感ぜられる。
「もしもし」と云うと、翁《おきな》が立って出迎えた。媼《おうな》は蹲ったままでいた。
「願行寺にある摂津国屋の墓を知っているでしょうね」と、わたくしは問うた。しかし翁も媼も耳が遠いので、わたくしは次第に声を大くして二三度繰り返さなくてはならなかった。
 奥にいる媼が先にわたくしの詞《ことば》を聞き分けて、「あのほそきさんですか」と云った。わたくしは此に依って一度香以の苗字を「ほそき」と訓むこととして、この稿を排印に付した。しかし彼《かの》香以と親しかった竺仙が「さいき」と書するを見て、猶《なお》「さいき」と正しかるべきを思った。
 わたくしは香以の裔《すえ》の芝にいる女の名を問いその夫の名をもたしかめようと思ったが、二人共何一つ知らなかった。
 ただ媼がこんな事を言った。「大そうお金持だったそうでございますね。あの時本の少しばかりで好《い》いから、お金が残して置いて貰われたらと、いつもそう仰《おっし》ゃいます。」
 わたくしは翁の手に小銀貨をわたして、樒を香以が墓に供することを頼んだ。
「承知いたしました。もう
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