将《まさ》に屈辱を受けんとしているものは自分の子分である。この請を容れぬわけには行かない。しかし何の手段を以てこれを救おうか。茶弘はこう考えて、最も簡易な買収の法を取った。後藤の取巻一同には茶弘の祝儀包が配られた。
 紫玉は包を座上に抛《なげう》って茶弘を罵《ののし》った。後藤が折角の催もこの殺風景のために興を破られて客は程なく散じた。
 香以は累を後藤に及さんことを恐れて、翌日紫玉を家に呼んで諭した。紫玉をして罪を茶弘に謝せしめようとしたのである。しかし紫玉は聴かなかった。材能《さいのう》伎芸《ぎげい》を以て奉承するは男芸者の職分である。廉恥を棄てて金銭を貪るものと歯《し》するは、その敢《あえ》てせざる所である。紫玉が花山を排したのは曲が花山にあったのである。紫玉が祝儀を卻《しりぞ》けたのは曲が茶弘にあったのである。紫玉は堅くこの説を持して動かなかった。
 香以は已《や》むことを得ぬので、人に託して後藤と茶弘との和解を謀った。二人は久保町の売茶亭に会見して、所謂《いわゆる》手打をしたそうである。これは香以が四十五歳の時の事である。後藤は後に名を庄吉と改めて米の仲買を業としていた。
 慶応三年に辻花雪三回忌の影画合《かげえあわせ》「くまなきかげ」が刊行せられて、香以は自らこれに序した。巻中の香以の影画には上《かみ》に引いた「針持つて」の句の短冊が貼《お》してある。わたくしの看たこの書は文淵堂の所蔵である。
 明治元年に山城河岸の店は鎖《とざ》された。当時香以の姉夫《あねむこ》は細木伊三郎と称して、山王町に書肆《しょし》を開いていた。山王町は今の宋十郎町である。香以はふさと慶次郎とを連れて、この伊三郎方に同居した。時に年四十七であった。
 明治三年九月に香以は病に臥して、十日に瞑目《めいもく》した。年四十九。法諡《ほうし》は梅余香以居士。願行寺なる父祖の塋域《えいいき》に葬られた。遺稿の中に。
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冬枯れてゐたは貴様か梅の花
紅梅に雪も好けれど加減もの
只遊ぶ萍《うきくさ》も経る月日かな
つごもりや由なき芥子《けし》の花あかり
盗まれむ葱《ねぎ》も作りて後の月
待事のありげに残る蚤《のみ》蚊《か》かな
値《ね》の高い水に砂吐く蜆《しゞみ》かな
地に著かぬ中ぞ長閑《のど》けき舞ふ木葉
 自像
花に売る一本物や江戸鰹《えどがつを》
 自傲《じごう》
霧晴て皆こちら向く山のなり
 寒川《さむかわ》
鰺切《あぢきり》の鈍くも光る寒さかな
 所思
わびぬれば河豚《ふぐ》を見棄てて菜大根
 絶筆
己《おの》れにも厭《あ》きての上か破芭蕉《やればせう》
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 明治四年十月十日の事である。親戚の営むべき一周忌にわざと一月遅れて、昔香以の恩蔭を被《こうむ》った人々が、団子坂の小倉是阿弥の家に集まって旧を話し、打連れて墓に詣でた。諸持、鶴寿、花雪、交山は死して既に久しく、書家|董斎《とうさい》の如きは、香以と同じ年の四月に死んでいる。狩野晏川《かのうあんせん》、河竹新七、其角堂《きかくどう》永機、竺仙、紫玉、善孝等はこの群《むれ》の中《うち》にいた。
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此墓の落葉むかしの小判哉  永機
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 香以去後に凋落《ちょうらく》して行く遊仲間のさまを示さむがために、此に二三の人の歿年を列記する。為山は明治十一年、玄漁は十三年、隣春《ちかはる》は十五年、等栽は二十三年、是真は二十四年、晏川《あんせん》と清満とは二十五年、永機は三十七年である。
 香以の履歴は主《おも》に資料を仮名垣魯文の「再来紀文廓花街」に仰いだ。今紀文|曲輪《くるわ》の花道と訓《よ》むのだそうである。鈴木春浦さんが小説の種にもと云って貸してくれた本を、遺忘のために手抄して置いたのである。
 その他根本|吐芳《とほう》さんの「大通人香以」の如きも、わたくしは参照した。しかし根本氏といえども、わたくしと同じく魯文の文に拠ったことであろう。鈴木氏の筆記に係《かか》る益田香遠、久保田米仙二家の談話、弟潤三郎の蔵儲《ぞうちょ》に係る竺仙事橋本素行の刊本「恩」はわたくしのために有益であった。

       十三

 本郷の追分を第一高等学校の木柵《もくさく》に沿うて東へ折れ、更に北へ曲る角が西教寺と云う寺である。西教寺の門前を過ぎて右に桐《きり》の花の咲く寄宿舎の横手を見つつ行けば、三四軒の店が並んでいて、また一つ寺がある。これが願行寺である。
 願行寺は門が露次の奥に南向に附いていて、道を隔てて寄宿舎と対しているのは墓地の外囲《そとがこい》である。この外囲が本《もと》は疎《まばら》な生垣で、大小高低さまざまの墓石が、道行人の目に触れていた。今は西教寺も願行寺も修築せられ、願行寺の生垣は一変して堅固な石塀《いしべい
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