以は、山城河岸の店から受ける為送《しおくり》の補足を売文の一途に求めた。河竹新七の紹介に由って、市村座の作者になり、番附に梅阿弥の名を列する。梅の本の名を以てして俳諧の判をする。何廼屋《なにのや》の名を以てして狂歌の判をする。注文に依って店開の散しを書く。此等は固《もと》よりこの時に始まったのではない。文淵堂《ぶんえんどう》所蔵の「狂歌本朝二十四孝」「狂歌調子笛」等は早く嘉永六年に印刷せられたものである。ただそれが職業となったのである。しかしこの職業は幾何《いくばく》の利益をも齎《もたら》さなかった。
これに反して所謂《いわゆる》庵室は昔馴染の芸人等の遊所となった。俳優中では市川新車、同《おなじく》市蔵、同九蔵、板東|家橘《かきつ》等が常の客であった。新車は後の門之助、家橘は後の五代目菊五郎である。香以は今芸人等と対等の交際をする身の上になって、祝儀と云うものは出さぬが、これに饗《きょう》する酒飯の価は聊《いささか》の売文銭の能《よ》く償う所ではなかった。何時頃《いつごろ》からの事か知らぬが、香以の家の客には必ず膳《ぜん》が据えられ、菜《さい》は塩辛《しおから》など一二品に過ぎぬが、膳の一隅には必ず小い紙包が置いてあった。それには二分金がはいっていたそうである。香以はまた負債に困《くるし》められて、猿寺の収容陣地から更に退却しなくてはならなくなった。これが香以の四十一歳になった年である。
文久三年の春であった。親戚某が世話をして、香以は下総国千葉郡寒川の白旗八幡前に退隠した。寒川は漁村である。文字を識って俳諧の心得などのあるものは、僅《わずか》に二三人に過ぎない。香以は浜の砂地に土俵を作らせ、村の子供を集めて相撲を取らせて、勝ったものには天保銭一枚の纏頭《はな》を遣りなどした。
しかし寒川と日本橋との間をば魚介を運ぶ舟が往来する。それに託して河竹新七、永機、竺仙等は書を寄せて香以を慰めた。またたまには便船して自ら訪うこともあった。当時この人々は濃紫のおふさが木綿著物に襷《たすき》を掛けて、かいがいしく立ち働くのを見て感心したそうである。「針持つて遊女老いけり雨の月」は香以が実境の句であった。
ある日天気が好くて海が穏《おだやか》なので、香以は浜辺に出ていた。そこへ一隻の舟が著いて、中から江戸の相撲が大勢出た。香以が物めずらしさに顔を見ると、小結以上の知人《しるひと》もいた。相撲は香以を認むるや否や頷《うなず》き合って進み寄って、砂の上に平伏した。「これはこれは、河岸の檀那、御機嫌宜《ごきげんよろ》しゅう、こちらに御逗留《ごとうりゅう》でございますか。どうぞ初日には御見物を。」相撲を迎えに出た土地の人達は、皆驚いて目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。「摂津国屋の隠居はえらい人だと見えて、関取衆が土下座をさっしゃる」と囁き合ったそうである。香以は交肴《まぜざかな》一|籠《かご》を相撲等に贈って、これがために一月余の節倹をした。
香以は文久三年から慶応二年まで、足掛四年寒川に住んでいた。四十二歳から四十五歳に至る間である。この間元治元年には梅屋鶴寿が歿した。慶応元年には辻花雪が歿した。花雪は狂歌合と云うことを始めた人である。
慶応二年に香以は山城河岸に帰った。今は家業の振わぬ店の隠居で、昔の友にも往来《ゆきき》するものが少かった。この頃新堀に後藤進一と云うものがあって、新堀小僧の綽名《あだな》を花柳の巷《ちまた》に歌われ、頗《すこぶる》豪遊に誇っていた。後藤は香以の帰京を聞いて、先輩としてこれを饗せむと思い立ち、木場の岡田|竜吟《りゅうぎん》と云うものに諮《はか》り、香以が昔の取巻、芳年、梅年、紫玉、竺仙等を駆り集め、香以を新橋の料理屋に招いた。香以は「倒されたる大いなるもの」として、この席に面《おもて》を曝《さら》すことを喜ばなかったが、忍んで後藤等の請を容れた。
十二
主人側の後藤等はこの宴会の興を添えむために、当時流行の幇間|松廼家花山《まつのやかざん》を呼んだ。花山は裸踊を以て名を博した男である。犢鼻褌《とくびこん》をだに著けずに真裸になって踊った。しかのみならず裸のままで筆にし難い事をもした。主人側のこれを呼んだのは、固《もと》より流に随って波を揚げたのであるが、その中で紫玉一人は兼て花山の所為《しょい》を悪《にく》んでいたので、もし我目前で尾籠《びろう》の振舞をしたら、懲して遣ろうと待ち構えていた。
芳年が紫玉の意を忖《はか》って、これを花山に告げた。花山は援《すくい》を茶弘に求めた。茶弘は新橋|界隈《かいわい》に幅を利かせていた侠客《きょうかく》で、花山が親分として戴いていたのである。
茶弘は花山の請を容れた。筵会の場所は自分の縄張の内である。単身これに赴いて
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