あっただろう。取巻の一人勝田諸持は、この年二月二十二日に六十八歳で歿した。彼《かの》学者の渋江抽斎《しぶえちゅうさい》、書家の市河米庵、ないし狂歌師仲間の六朶園《ろくだえん》荒井雅重、家元仲間の三世清元延寿太夫等と同じく、虎列拉《コレラ》に冒されたのかも知れない。諸持は即ち初代宇治紫文である。
 安政六年には香以の身代がやや傾きはじめたらしい。前田家、上杉家等の貸附はほぼ取り立ててしまい、家に貯えた古金銀は概《おおむ》ね沽却《こきゃく》せられたそうである。しかし香以の豪遊は未だ衰えなかった。
 香以はこの年江の島、鎌倉、金沢を巡覧した。同行したものは為山、等栽、永機、竺仙等であった。小倉是阿弥の茶室の張交《はりまぜ》になっていた紀行が果してこの遊を叙したものであったなら、一行には女も二三人加わっていたはずである。有中は供に立つ約束をして置きながら、出発の間に合わなかったので、三枚肩の早打で神奈川台へ駆け附け、小判五枚の褒美を貰い、駕籠舁《かごかき》も二枚貰った。
 香以は途次藤沢の清浄光寺に詣《もう》で、更に九つの阿弥号を遊行上人から受けて人に与えた。

       十

 香以は旅から帰った後、旧に依って稲本に通っていた。相方は小稲であった。然るにこの頃同じ家に花鳥と云う昼三《ちゅうさん》がいた。花鳥は恐るべき経歴を有していた。ある時は人の囲いものとなっていて情夫と密会し、暇《いとま》を取る日に及んで、手切金を強請した。ある時は支度金を取って諸侯の妾《しょう》に住み込み、故意に臥所《ふしど》に溺《いばり》して暇になった。そしてその姿態は妖艶《ようえん》であった。
 花鳥は廊下で香以に逢うごとに秋波《しゅうは》を送った。ある夕《ゆうべ》小稲が名代床《みょうだいどこ》へ往って、香以が独《ひとり》無聊《ぶりょう》に苦んでいると、花鳥の使に禿《かぶろ》が来た。香以はうっかり花鳥の術中に陥った。
 数日の後であった。大引過《おおびけすぎ》の夜は寂としていた。香以は約を履《ふ》んで花鳥の屏風の中に入った。忽《たちま》ち屏風をあららかに引き退けて飛び込んだものがある。それは小稲の番新《ばんしん》豊花であった。
 香以は豊花に拉《ひ》いて往かれて座敷に坐った。鶴彦は急使を以て迎えられた。巽育《たつみそだち》の豊花が甲走った声に誘《いざな》われて、無遠慮な男女は廊下に集まり、次の間の障子は所々|濡《ぬ》らした指尖で穿たれた。
 この時|留女《とめおんな》として現われたのは芸者きわである。豊花と鶴彦とを次の間に連れて往って、小稲花鳥へ百両ずつの内済金を出すことに話を附け、それを香以に取り次いだ。しかし香以の懐《ふところ》には即金二百両の持合せがなかった。
 きわは豊花を待たせて置いて、稲本を馳《は》せ出《い》で、兼て香以の恩を受けた有中、米八、権平等を座敷々々に歴訪して、財布の底をはたかせたが、その金は合計五十両には足らなかった。きわは高利の金を借りて不足を補った。
 香以は闇《やみ》に紛れて茶屋へ引き取り、きわには辞《ことば》を尽して謝し、「金は店からすぐ届ける」と云い畢《おわ》って四手《よつで》に乗り、山城河岸へ急がせた。
 これは香以が三十八歳の時の事であった。この年三月二十三日に、贔屓役者七代目団十郎の寿海老人が、猿若町一丁目の家に歿した。香以は鶴寿と謀って追善の摺物《すりもの》を配った。画は蓮生坊《れんしょうぼう》に扮した肖像で、豊国がかいた。香以の追悼の句の中に「かへりみる春の姿や海老《えび》の殻《から》」と云うのがあった。
 文久元年の夏深川に仮宅のある時であった。香以は旧交を温《たず》ねて玄魚、魯文の二人を数寄屋町《すきやちょう》の島村半七方に招いた。取持には有中、米八が来た。宴を撤してから舟を鞘町河岸《さやちょうがし》に艤《ぎ》し、松井町の稲本に往った。小稲花鳥はもういなかった。三代目小稲と称していたのは前の小稲の突出《つきだし》右近である。香以は玄魚と魯文との相方《あいかた》を極めさせ、自分は有中、米八を連れて辞し去った。
 この年香以は四十歳であった。香以は旧に依って讌遊《えんゆう》を事としながら、漸く自己の運命を知るに至った。「年四十露に気の附く花野|哉《かな》。」山城河岸の酒席に森|枳園《きえん》が人を叱《しっ》したと云う話も、この頃の事であったらしい。
 文久二年は山城河岸没落の年である。香以は店を継母に渡し、自分は隠居して店から為送《しおくり》を受けることとし、妾鶴には暇《いとま》を遣《や》り、妻ふさと倅《せがれ》慶次郎とを連れて、浅草馬道の猿寺《さるでら》境内に移った。蕭条《しょうじょう》たる草の庵《いお》の門《かど》には梅阿弥の標札が掛かっていた。

       十一

 猿寺の侘住《わびずま》いに遷った香
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