った。そして屏風を玉屋山三郎に遺った。しかし山三郎にはこの屏風は女郎の床には立てぬと云う一札を入れさせたのである。
 安政四年になって銀鎖《ぎんぐさり》の煙草入《たばこいれ》が流行《はや》った。香以は丸利に誂《あつら》えて数十箇を作らせ、取巻一同に与えた。古渡唐桟《こわたりとうざん》の羽織を揃《そろい》に為立《した》てさせて、一同に※[#「嚊のつくり−自」、第4水準2−81−24]《あた》えたのもこの頃である。
 この年の春竹川町の三村氏が香以に応挙の鯉《こい》一幅を贈った。香以はこれを獲て応挙の鯉三十六幅を集めようと思い立った。書画|骨董商等《こつとうしょうら》は京阪地方をまで捜して幅数を揃えた。しかし交山、柴田是真等に示すに、その大半は贋物《がんぶつ》であった。香以は憤って更に現存の画家三十六人を選んで鯉を画かせた。そして十一月に永機を招いて鯉の聯句を興行した。その時配った半歌仙には鳥居清満が鯉の表紙画をかき、香以が暫《しばらく》のつらねに擬した序を作った。その末段はこうである。「点ならござれ即点に、素襖《すあを》の柿《かき》のへたながら、大刀《たち》の切字や手爾遠波《てにをは》を、正して点をかけ烏帽子《ゑぼし》、悪く謗《そし》らば片つはし、棒を背負《しよ》つた挙句の果、此世の名残執筆の荒事、筆のそつ首引つこ抜き、硯《すゞり》の海へはふり込むと、ほゝ敬《うやま》つて白《まう》す。」
 この年の秋猿若町市村座で、河竹新七作|網摸様燈籠菊桐《あみもようとうろのきくきり》が興行せられた。享保中の遊女玉菊の事に網打七五郎の事を併せて作ったものである。香以は河原崎権十郎、市川小団次の二人に引幕一張ずつを贈り、芸者おさんに扮した市川米五郎と桜川善孝に扮した中村鴻蔵との衣裳《いしょう》持物を寄附した。これは皆権十郎を引き立てるためであった。
 香以が浅草日輪寺で遊行上人に謁し、阿弥号|許多《あまた》を貰い受けたのもこの頃の事である。香以自己は寿阿弥と号し、幾《いくば》くもなくこれを河竹新七に譲って、梅阿弥と更めた。この年香以は三十六歳であった。

       九

 安政五年の三月市村座に、江戸桜清水清玄と云う狂言が演ぜられた。場面は仲の町引手茶屋の前である。源之助の番頭新造が吉六の俳諧師東栄の胸倉を取っている。これは東栄が所謂《いわゆる》性悪《しょうわる》をして、新造花川に負《そむ》いたために、曲輪《くるわ》の法で眉《まゆ》を剃《そ》り落されそうになっているところである。鴫蔵《しぎぞう》竹助の妓夫《ぎふ》が東栄を引き立てて暖簾《のれん》の奥に入る。次で国五郎、米五郎、小半次、三太郎、島蔵の侍等《さぶらいら》が花道を出て、妓夫に案内せられて奥に入る。三十郎の遊女揚巻父押上村新兵衛が白酒売となって出る。侍等が出て白酒を飲んで価を償わずに花道へ入る。小団次の黒手組助六が一人の侍の手を捩《ね》じ上げて花道から出て侍等を懲《こら》す。侍等は花道を逃げ入る。この時権十郎の紀伊国屋文左衛門が暖簾を搴《かか》げて出る。その拵《こしらえ》は唐桟の羽織を著、脇差《わきざし》を差し駒下駄《こまげた》を穿《は》いている。背後《うしろ》には東栄が蛇の目傘を持って附いている。合方は一中節を奏する。文左衛門は助六を呼んで戒飭《かいちょく》する。舞台が廻ると、揚巻の座敷である。文左衛門が揚巻の身受をして助六に妻《めあわ》せる。揚巻は初め栄三郎、後梅幸であった。
 狂言の文左衛門は、この頃遊所で香以を今紀文と称《とな》え出したに因《ちな》んで、この名を藉《か》りて香以を写したものである。東栄は牧冬映である。二人の衣裳持物は都《すべ》て香以の贈《おくりもの》で文左衛門の銀装《ぎんごしらえ》の脇差は香以の常に佩《お》びた物である。この狂言の作者は香以の取巻の一人河竹新七であった。吉六は東栄に扮《ふん》した後、畢生《ひっせい》東鯉と号したが、東は東栄の役を記念したので、鯉は香以の鯉角から取ったのである。
 この年八月二十六日に市川権十郎は芸道に奨《はげ》み、贔屓に負かぬと云う誓文《せいもん》を書き、父七代目団十郎の寿海老人に奥書をさせて香以に贈った。
 香以のこの頃往った妓楼は稲本、相方は二代目小稲であった。所謂《いわゆる》お側去《そばさ》らずの取巻は冬映、最も愛せられていた幇間は都有中であった。
 有中は素《もと》更紗染屋《さらさそめや》の出身で、遊芸には通じていても文字を識らなかった。そこで貸本に由って知識を求め、最も三国志を喜んだ。香以は有中が口を開けば孔明を称するのを面白がって、金を出して遣って孔明祭を修せしめた。今の富豪が乃木祭を行う類である。それからは有中に陣大鼓の綽号《あだな》が附けられた。
 香以はこの年三十七歳であった。恐らくはその盛名の絶頂に達した時で
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