いる。
詣《もう》で畢《おわ》って帰る時、わたくしはまた子を抱いた女の側《そば》を通らなくてはならなかった。わたくしは女に問うた。
「親類の人が参詣《さんけい》しますか。」
「ええ。余所《よそ》へおよめに往った方が一人残っていなすって、忌日には来られます。芝の炭屋さんだそうで、たしか新原元三郎と云う人のお上《かみ》さんだと存じます。住職は好く存じていますが、只今留守でございます。なんなら西教寺とこちらとの間に花屋が住っていますから、聞いて御覧なさいまし。」
わたくしは再び女に謝して寺を出た。そして往来に立ち止って花屋を物色した。
西教寺と願行寺との間の町家は皆新築の小さい店になっている。その間に挟まれて、ほとんど家とは云い難い程の小家の古びたのが一軒あって、葭簀《よしず》が立て廻してある。わたくしはそれを見て、かつてその前に樒《しきみ》のあるのを見たことを想起した。
わたくしは葭簀の中に這入った。家の内はもうほとんど真暗である。瞳《ひとみ》を定めて見れば、老いさらぼうた翁媼《おううん》が蹲《うずくま》っている。家も人も偶然開化の舌に舐《な》め残されたかと感ぜられる。またお伽話《とぎばなし》の空気が闇《やみ》の裡《うち》に浮動しているかとも感ぜられる。
「もしもし」と云うと、翁《おきな》が立って出迎えた。媼《おうな》は蹲ったままでいた。
「願行寺にある摂津国屋の墓を知っているでしょうね」と、わたくしは問うた。しかし翁も媼も耳が遠いので、わたくしは次第に声を大くして二三度繰り返さなくてはならなかった。
奥にいる媼が先にわたくしの詞《ことば》を聞き分けて、「あのほそきさんですか」と云った。わたくしは此に依って一度香以の苗字を「ほそき」と訓むこととして、この稿を排印に付した。しかし彼《かの》香以と親しかった竺仙が「さいき」と書するを見て、猶《なお》「さいき」と正しかるべきを思った。
わたくしは香以の裔《すえ》の芝にいる女の名を問いその夫の名をもたしかめようと思ったが、二人共何一つ知らなかった。
ただ媼がこんな事を言った。「大そうお金持だったそうでございますね。あの時本の少しばかりで好《い》いから、お金が残して置いて貰われたらと、いつもそう仰《おっし》ゃいます。」
わたくしは翁の手に小銀貨をわたして、樒を香以が墓に供することを頼んだ。
「承知いたしました。もう
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