細木香以
森鴎外
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)津藤《つとう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)香以の父|竜池《りゅうち》の事に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)自ら※[#「坐+りっとう」、第3水準1−14−62]《きざ》み
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一
細木香以は津藤《つとう》である。摂津国屋《つのくにや》藤次郎である。わたくしが始めて津藤の名を聞いたのは、香以の事には関していなかった。香以の父|竜池《りゅうち》の事に関していた。摂津国屋藤次郎の称《となえ》は二代続いているのである。
わたくしは少年の時、貸本屋の本を耽読《たんどく》した。貸本屋が笈《おい》の如くに積み畳《かさ》ねた本を背負って歩く時代の事である。その本は読本《よみほん》、書本《かきほん》、人情本の三種を主としていた。読本は京伝《きょうでん》、馬琴《ばきん》の諸作、人情本は春水《しゅんすい》、金水《きんすい》の諸作の類で、書本は今|謂《い》う講釈|種《だね》である。そう云う本を読み尽して、さて貸本屋に「何かまだ読まない本は無いか」と問うと、貸本屋は随筆類を推薦する。これを読んで伊勢|貞丈《ていじょう》の故実の書等に及べば、大抵貸本文学卒業と云うことになる。わたくしはこの卒業者になった。
わたくしは初め馬琴に心酔して、次で馬琴よりは京伝を好くようになり、また春水、金水を読み比べては、初から春水を好いた。丁度後にドイツの本を読むことになってからズウデルマンよりはハウプトマンが好だと云うと同じ心持で、そう云う愛憎をしたのである。
春水の人情本には、デウス・エクス・マキナアとして、所々《しょしょ》に津藤さんと云う人物が出る。情知《なさけしり》で金持で、相愛《あいあい》する二人を困厄の中から救い出す。大抵津藤さんは人の対話の内に潜んでいて形を現さない。それがめずらしく形を現したのは、梅暦《うめごよみ》の千藤《ちとう》である。千葉の藤兵衛である。
当時|小倉袴《こくらばかま》仲間の通人がわたくしに教えて云った。「あれは摂津国屋藤次郎と云う実在の人物だそうだよ」と。モデエルと云う語はこう云う意味にはまだ使われていなかった。
この津藤セニョオルは
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