新橋山城町の酒屋の主人であった。その居る処から山城|河岸《がし》の檀那《だんな》と呼ばれ、また単に河岸の檀那とも呼ばれた。姓は源、氏《うじ》は細木、定紋は柊《ひいらぎ》であるが、店の暖簾《のれん》には一文字の下に三角の鱗形《うろこがた》を染めさせるので、一鱗堂《いちりんどう》と号し、書を作るときは竜池《りゅうち》と署し、俳句を吟じては仙塢《せんう》と云い、狂歌を詠じては桃江園《とうこうえん》また鶴《つる》の門雛亀《とひなかめ》、後に源僊《みなもとのやまひと》と云った。
竜池は父を伊兵衛《いへえ》と云った。伊兵衛は竜池が祖父の番頭であったのを、祖父が人物を見込んで養子にした。摂津国屋の店を蔵造《くらづくり》にしたのはこの伊兵衛である。奥蔵を建て増し、地所を買い添えて、山城河岸を代表する富家にしたのはこの伊兵衛である。
伊兵衛は七十歳近くなって、竜池に店を譲って隠居し、山城河岸の家の奥二階に住んでいた。隠居した後も、道を行きつつ古草鞋《ふるわらじ》を拾って帰り、水に洗い日に曝《さら》して自ら※[#「坐+りっとう」、第3水準1−14−62]《きざ》み、出入の左官に与えなどした。しかし伊兵衛は卑吝《ひりん》では無かった。某年に芝泉岳寺で赤穂四十七士の年忌が営まれた時、棉服の老人が墓に詣《もう》でて、納所《なつしょ》に金百両を寄附し、氏名を告げずして去った。寺僧が怪んで人に尾行させると、老人は山城河岸摂津国屋の暖簾の中に入った。
二
竜池は家を継いでから酒店《さかみせ》を閉じて、二三の諸侯の用達《ようたし》を専業とした。これは祖先以来の出入先で、本郷五丁目の加賀中将家、桜田堀通の上杉侍従家、桜田|霞《かすみ》が関《せき》の松平少将家の三家がその主《おも》なるものであった。加賀の前田は金沢、上杉は米沢、浅野松平は広島の城主である。
文政の初年には竜池が家に、父母伊兵衛夫婦が存命していて、そこへ子婦《よめ》某氏が来ていた。竜池は金兵衛以下数人の手代《てだい》を諸家へ用聞に遣《や》り、三日式日《さんじつしきじつ》には自身も邸々《やしきやしき》を挨拶《あいさつ》に廻った。加賀家は肥前守斉広卿《ひぜんのかみなりのりきょう》の代が斉泰卿《なりやすきょう》の代に改まる直前である。上杉家は弾正大弼斉定《だんじょうのたいひつなりさだ》、浅野家は安芸守斉賢《あきのかみな
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