晴て皆こちら向く山のなり
 寒川《さむかわ》
鰺切《あぢきり》の鈍くも光る寒さかな
 所思
わびぬれば河豚《ふぐ》を見棄てて菜大根
 絶筆
己《おの》れにも厭《あ》きての上か破芭蕉《やればせう》
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 明治四年十月十日の事である。親戚の営むべき一周忌にわざと一月遅れて、昔香以の恩蔭を被《こうむ》った人々が、団子坂の小倉是阿弥の家に集まって旧を話し、打連れて墓に詣でた。諸持、鶴寿、花雪、交山は死して既に久しく、書家|董斎《とうさい》の如きは、香以と同じ年の四月に死んでいる。狩野晏川《かのうあんせん》、河竹新七、其角堂《きかくどう》永機、竺仙、紫玉、善孝等はこの群《むれ》の中《うち》にいた。
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此墓の落葉むかしの小判哉  永機
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 香以去後に凋落《ちょうらく》して行く遊仲間のさまを示さむがために、此に二三の人の歿年を列記する。為山は明治十一年、玄漁は十三年、隣春《ちかはる》は十五年、等栽は二十三年、是真は二十四年、晏川《あんせん》と清満とは二十五年、永機は三十七年である。
 香以の履歴は主《おも》に資料を仮名垣魯文の「再来紀文廓花街」に仰いだ。今紀文|曲輪《くるわ》の花道と訓《よ》むのだそうである。鈴木春浦さんが小説の種にもと云って貸してくれた本を、遺忘のために手抄して置いたのである。
 その他根本|吐芳《とほう》さんの「大通人香以」の如きも、わたくしは参照した。しかし根本氏といえども、わたくしと同じく魯文の文に拠ったことであろう。鈴木氏の筆記に係《かか》る益田香遠、久保田米仙二家の談話、弟潤三郎の蔵儲《ぞうちょ》に係る竺仙事橋本素行の刊本「恩」はわたくしのために有益であった。

       十三

 本郷の追分を第一高等学校の木柵《もくさく》に沿うて東へ折れ、更に北へ曲る角が西教寺と云う寺である。西教寺の門前を過ぎて右に桐《きり》の花の咲く寄宿舎の横手を見つつ行けば、三四軒の店が並んでいて、また一つ寺がある。これが願行寺である。
 願行寺は門が露次の奥に南向に附いていて、道を隔てて寄宿舎と対しているのは墓地の外囲《そとがこい》である。この外囲が本《もと》は疎《まばら》な生垣で、大小高低さまざまの墓石が、道行人の目に触れていた。今は西教寺も願行寺も修築せられ、願行寺の生垣は一変して堅固な石塀《いしべい
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