るひと》もいた。相撲は香以を認むるや否や頷《うなず》き合って進み寄って、砂の上に平伏した。「これはこれは、河岸の檀那、御機嫌宜《ごきげんよろ》しゅう、こちらに御逗留《ごとうりゅう》でございますか。どうぞ初日には御見物を。」相撲を迎えに出た土地の人達は、皆驚いて目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。「摂津国屋の隠居はえらい人だと見えて、関取衆が土下座をさっしゃる」と囁き合ったそうである。香以は交肴《まぜざかな》一|籠《かご》を相撲等に贈って、これがために一月余の節倹をした。
香以は文久三年から慶応二年まで、足掛四年寒川に住んでいた。四十二歳から四十五歳に至る間である。この間元治元年には梅屋鶴寿が歿した。慶応元年には辻花雪が歿した。花雪は狂歌合と云うことを始めた人である。
慶応二年に香以は山城河岸に帰った。今は家業の振わぬ店の隠居で、昔の友にも往来《ゆきき》するものが少かった。この頃新堀に後藤進一と云うものがあって、新堀小僧の綽名《あだな》を花柳の巷《ちまた》に歌われ、頗《すこぶる》豪遊に誇っていた。後藤は香以の帰京を聞いて、先輩としてこれを饗せむと思い立ち、木場の岡田|竜吟《りゅうぎん》と云うものに諮《はか》り、香以が昔の取巻、芳年、梅年、紫玉、竺仙等を駆り集め、香以を新橋の料理屋に招いた。香以は「倒されたる大いなるもの」として、この席に面《おもて》を曝《さら》すことを喜ばなかったが、忍んで後藤等の請を容れた。
十二
主人側の後藤等はこの宴会の興を添えむために、当時流行の幇間|松廼家花山《まつのやかざん》を呼んだ。花山は裸踊を以て名を博した男である。犢鼻褌《とくびこん》をだに著けずに真裸になって踊った。しかのみならず裸のままで筆にし難い事をもした。主人側のこれを呼んだのは、固《もと》より流に随って波を揚げたのであるが、その中で紫玉一人は兼て花山の所為《しょい》を悪《にく》んでいたので、もし我目前で尾籠《びろう》の振舞をしたら、懲して遣ろうと待ち構えていた。
芳年が紫玉の意を忖《はか》って、これを花山に告げた。花山は援《すくい》を茶弘に求めた。茶弘は新橋|界隈《かいわい》に幅を利かせていた侠客《きょうかく》で、花山が親分として戴いていたのである。
茶弘は花山の請を容れた。筵会の場所は自分の縄張の内である。単身これに赴いて
前へ
次へ
全28ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング