に負《そむ》いたために、曲輪《くるわ》の法で眉《まゆ》を剃《そ》り落されそうになっているところである。鴫蔵《しぎぞう》竹助の妓夫《ぎふ》が東栄を引き立てて暖簾《のれん》の奥に入る。次で国五郎、米五郎、小半次、三太郎、島蔵の侍等《さぶらいら》が花道を出て、妓夫に案内せられて奥に入る。三十郎の遊女揚巻父押上村新兵衛が白酒売となって出る。侍等が出て白酒を飲んで価を償わずに花道へ入る。小団次の黒手組助六が一人の侍の手を捩《ね》じ上げて花道から出て侍等を懲《こら》す。侍等は花道を逃げ入る。この時権十郎の紀伊国屋文左衛門が暖簾を搴《かか》げて出る。その拵《こしらえ》は唐桟の羽織を著、脇差《わきざし》を差し駒下駄《こまげた》を穿《は》いている。背後《うしろ》には東栄が蛇の目傘を持って附いている。合方は一中節を奏する。文左衛門は助六を呼んで戒飭《かいちょく》する。舞台が廻ると、揚巻の座敷である。文左衛門が揚巻の身受をして助六に妻《めあわ》せる。揚巻は初め栄三郎、後梅幸であった。
狂言の文左衛門は、この頃遊所で香以を今紀文と称《とな》え出したに因《ちな》んで、この名を藉《か》りて香以を写したものである。東栄は牧冬映である。二人の衣裳持物は都《すべ》て香以の贈《おくりもの》で文左衛門の銀装《ぎんごしらえ》の脇差は香以の常に佩《お》びた物である。この狂言の作者は香以の取巻の一人河竹新七であった。吉六は東栄に扮《ふん》した後、畢生《ひっせい》東鯉と号したが、東は東栄の役を記念したので、鯉は香以の鯉角から取ったのである。
この年八月二十六日に市川権十郎は芸道に奨《はげ》み、贔屓に負かぬと云う誓文《せいもん》を書き、父七代目団十郎の寿海老人に奥書をさせて香以に贈った。
香以のこの頃往った妓楼は稲本、相方は二代目小稲であった。所謂《いわゆる》お側去《そばさ》らずの取巻は冬映、最も愛せられていた幇間は都有中であった。
有中は素《もと》更紗染屋《さらさそめや》の出身で、遊芸には通じていても文字を識らなかった。そこで貸本に由って知識を求め、最も三国志を喜んだ。香以は有中が口を開けば孔明を称するのを面白がって、金を出して遣って孔明祭を修せしめた。今の富豪が乃木祭を行う類である。それからは有中に陣大鼓の綽号《あだな》が附けられた。
香以はこの年三十七歳であった。恐らくはその盛名の絶頂に達した時で
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