池は子之助を拉《らっ》して帰り、幸町《さいわいちょう》の持地面に置いてある差配人佐兵衛に預けた。そして勘当の手続をしようとした。しかし手代等の扱によって、子之助は山城河岸に帰り、父の監督を受けることとなった。
幸《さいわい》に竜池は偽善を以て子を篏制《かんせい》しようとはしなかった。自分の地味な遊には子之助を侍せしめて、これに教うるに酒色の筵《むしろ》にあっても品位を墜《おと》さぬ心掛を以てした。子之助の態度は此《ここ》に一変した。これが子之助の二十一歳になった時の事である。
竜池の贔屓にした七代目団十郎は、この年六月二十二日に江戸を追放せられ、竜池の親しい友為永春水はこの年七月十三日に牢死《ろうし》した。これも間接に山城河岸の父子をして忌諱《きき》を知らしむる媒《なかだち》となったであろう。
これから安政三年に至るまでの間には記すべき事が少い。姑《しばら》く二三の消息を注すれば、先ず天保十四年に河原崎座が、先に移った中村、市村両座と共に猿若町《さるわかちょう》に移って、勝諺蔵が立作者|柴晋助《しばしんすけ》となった。芝宇田川町にいたからである。河竹新七の名は暫《しば》らく立ってから、三代目桜田治助の勧に依って襲《つ》いだ。嘉永元年六月二十七日に、子之助の祖父伊兵衛が七十余歳で歿した。法諡《ほうし》は繁誉宝寿徳昌善士である。墓は願行寺|先塋《せんえい》の中にある。竜池の師、静廬もこの年八十三歳で歿した。寿阿弥曇※[#「大/周」、第3水準1−15−73]《じゅあみどんちょう》の歿したのも同年である。寿阿弥と竜池父子とは相識ではあっただろうが、その交《まじわり》の奈何《いかん》を詳《つまびらか》にしない。しかし後に子之助は清浄光寺から寿阿弥号を受けて、間接に真志屋の阿弥号を襲いだのである。三年に竜池の友諸持が都派を脱して宇治紫文と称した。安政元年に竜池父子の贔屓にした八代目団十郎が自刃した。二年は地震の年である。江戸遊所の不景気は未曾有で、幇間は露肆《ろし》に天麩羅《てんぷら》を売り、町芸妓は葭簀張《よしずばり》におでん燗酒《かんざけ》を鬻《ひさ》いだそうである。山城河岸の雨露はこれを霑《うるお》し尽すことが出来なかったであろう。
安政三年の夏竜池は病に臥《ふ》した。次で九月二十日に世を去った。法諡は白誉雲外竜池善士と云う。また願行寺に葬られた。手代等は若檀那子
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