之助の前途を気遣って、大坂町に書肆を開いている子之助の姉婿《あねむこ》摂津国屋伊三郎を迎えて、家督相続をさせようとした。子之助の姉は上杉家の奥を下《さが》って婿を取り、分家を立てていたのである。然るに子之助の継母三村氏すみは、義理ある子之助を廃嫡の否運に逢わせては、自分の庇護《ひご》が至らぬように世間の目から見られようと云って、手代等の議を拒んだ。子之助は遂《つい》に山城河岸の本家を嗣《つ》いだ。時に年三十五である。ついでに云う、竜池の狂歌の師初代弥生庵|雛麿《ひなまろ》は竜池と同年同月に歿した。

       七

 父竜池の後を継いで二世藤次郎となった子之助は、継母三村氏すみその他の親族、最故参の金兵衛以下大勢の手代の手前があるので、暫くは謹慎を守っていたが、四十九日の配物《くばりもの》が済んだ頃から遊所に通いはじめ、漸《ようや》く馴れては傍人《ぼうじん》の思わくをも顧みぬようになった。女房はまだ部屋住でいた時に迎えて、もう子供が二人ある。里方は深川木場の遠州屋太右衛門である。しかし女房も岳父《しゅうと》もただ手を束《つか》ねて傍看する外無かった。
 王侯貴人が往々文芸の士を羅致《らち》して、声威を張り儀容を飾る具となすように、藤次郎は俳諧師、狂歌師、狂言作者、書家、彫工、画工と交って、その多数を待つことほとんど幇間と択《えら》ぶことが無かった。父竜池は毎《つね》に狂歌を弄《もてあそ》んだが、藤次郎はこれに反して主《おも》に俳諧に遊んだ。その友を集《つど》えた席は、長谷川町の梅の家、万町《よろずちょう》の柏木亭《かしわぎてい》等であった。
 藤次郎は子之助時代に鯉角《りかく》と号し、一に李蠖《りかく》とも署していたが、家を継いだ後、関|為山《いざん》から梅の本の称を受け、更に晋永機《しんえいき》に晋の字を貰い、自ら香以と号し、また好以、交以、孝以とも署した。たまたま狂歌を作るときは何廼屋《なにのや》と署した。
 劇場では香以は河原崎権十郎を贔屓にした。後の九代目団十郎である。香以は贔屓の連中を組織して、荒磯連《あらいそれん》と名《なづ》け、その掟文《おきてぶみ》と云うものを勝田諸持に書かせた。九代目の他日の成功は半香以の庇蔭《ひいん》に因《よ》ったのである。また八代目が自刃した後、権十郎の実父七代目団十郎の寿海老人が江戸に還っていたので、香以はこれをも贔屓にし
前へ 次へ
全28ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング