三年三月の頃から五|分月題《ぶさかやき》の子之助は丁稚《でっち》兼吉を連れて、鳥羽屋を出《い》で、手習の師匠松本、狂歌の宗匠梅屋鶴寿等を訪《と》うことになったが、その帰途には兼吉を先に還らせて、自分は劇場妓楼に立ち寄った。兼吉は綽号《あだな》を鳥羽絵小僧と云った。想うに鳥羽屋の小僧で、容貌《ようぼう》が奇怪であったからの名であろう。即ち後の仮名垣魯文《かながきろぶん》である。
劇場は木挽町《こびきちょう》の河原崎座であった。贔屓《ひいき》の俳優は八代目団十郎である。作者|勝諺蔵《かつげんぞう》をば部屋に訪うて交《まじわり》を結んだ。諺蔵は後の河竹新七である。
妓楼は主に品川の島崎|湊屋《みなとや》、土蔵相摸《どぞうさがみ》で、引手茶屋は大野屋万治方であった。湊屋のお染は尤《もっと》も久しい馴染であった。
取巻は河原崎座の作者岩井紫玉、同座附茶屋の主人武田屋馬平、品川の幇間《ほうかん》富本|登名太夫《となたゆう》、同《おなじく》熨斗太夫《のしたゆう》、桜川善二坊、その他俳諧師|牧乙芽《まきおつが》、力士|勢藤吾《いきおいとうご》等であった。紫玉は後の正伝節家元春富士、乙芽は後の冬映である。
六
竜池の水引を掛けた祝儀は壮観ではあっても、費す所は甚だ多きに至らなかった。これに反して子之助は、人に※[#「嚊のつくり−自」、第4水準2−81−24]《あた》うる物に種々の趣向を凝らし、その値の高下を問わなかった。丸利、丸上、山田屋等の袋物店に払う紙入、煙草入の代は莫大《ばくだい》であった。既にして更衣《ころもがえ》の節となった。子之助は単《ひとえ》羽織と袷《あわせ》とを遊所に持て来させて著更え、脱ぎ棄てた古渡唐桟《こわたりとうざん》の袷羽織、糸織の綿入、琉球紬《りゅうきゅうつむぎ》の下著、縮緬《ちりめん》の胴著等を籤引《くじびき》で幇間芸妓に与えた。
竜池は子之助の遊蕩がいよいよ募って、三村氏が放任して顧みぬことを聞き知り、自ら手を下してこれを制せようとした。六月中旬の事である。子之助が品川の湊屋にいると、竜池は四手《よつで》を飛ばして大野屋に来た。そして子之助に急用があるから来いと言って遣った。
子之助は父を畏《おそ》れて、湊屋の下座敷から庭に飛び下り、海岸の浅瀬を渉《わた》って逃げようとしたが、使のものに見附けられて捉《とら》えられた。
竜
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