め》て二歳の時である。八年七月二十九日には祖父伊兵衛の妻が歿した。法諡《ほうし》を臨照院相誉迎月|大姉《だいし》と云う。子之助が四歳の時である。十一年には父の友|楚満人《そまびと》が狂訓亭春水と号した。子之助が七歳の時である。
 父竜池がこの頃《ころ》の友には、春水、良斎、北渓よりして外、猶《なお》勝田|諸持《もろもち》があった。諏訪町《すわちょう》の狂歌師|千種庵《ちくさあん》川口|霜翁《そうおう》の後を襲《つ》いで、二世千種庵と云う。一中節の名は都一閑斎である。後に別派を立てて宇治紫文と更《あらた》め、池《いけ》の端《はた》に住んだのがこの人である。竜池は当時北渓に席画を作らせ、諸持に狂歌の判をさせ、春水、良斎等を引き連れて花柳の巷《ちまた》に遊んでいた。
 子之助は天保九年に十七歳になった頃から、料理屋、船宿に出入し、芸者に馴染《なじみ》が出来、次で内藤新宿、品川の妓楼に遊んだ。
 天保十二年の頃には竜池、香以の父子が相踵《あいつ》いでクリジスに遭ったらしい。子之助とその姉とを生んだ竜池の妻はこの頃離縁になった。子之助の姉は外桜田堀通の上杉弾正大弼斉憲《うえすぎだんじょうのたいひつなりのり》[#ルビの「だんじょう」は底本では「だんじゅう」]の奥に仕えていた。竜池は尋《つい》で三十間堀住の十人衆三村清左衛門の分家、竹川町の鳥羽屋三村清吉の姉すみを納《い》れて後妻とし、同時に山王町に別宅を構えて妾《しょう》を置いた。
 未だ幾《いくばく》ならぬに、竜池は将《まさ》に刑辟《けいへき》に触れむとして纔《わずか》に免れた。これは女郎買案内を作って上梓《じょうし》し、知友の間に頒《わか》った事が町奉行の耳に入ったのである。頼《さいわい》に加賀町の名主田中平四郎がこれを知って、密《ひそか》に竜池に告げた。竜池は急に諸役人に金を餽《おく》って弥縫《びほう》し、妾に暇を遣《つかわ》し、別宅を売り、遊所通《ゆうしょがよい》を止めた。内山町の盲人|百島勾当《ももしまこうとう》の家を遊所《あそびどころ》として諸持等を此《ここ》に集《つど》えることになったのは当時の事である。
 子之助はこの年十二月下旬に継母の里方鳥羽屋に預けられた。これは新宿、品川二箇所の引手茶屋に借財を生じたためである。子之助時に二十歳であった。
 然るに竜池の遊所通は罷《や》んでも、子之助のは罷まなかった。天保十
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