た。書院の人々は覚えず、それを見てほほえんだ。
 この時佐佐が書院の敷居ぎわまで進み出て、「いち」と呼んだ。
「はい。」
「お前の申し立てにはうそはあるまいな。もし少しでも申した事に間違いがあって、人に教えられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隠して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責め道具のある方角を指さした。
 いちはさされた方角を一目見て、少しもたゆたわずに、「いえ、申した事に間違いはございません」と言い放った。その目は冷ややかで、そのことばは徐《しず》かであった。
「そんなら今一つお前に聞くが、身代わりをお聞き届けになると、お前たちはすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることはできぬが、それでもいいか。」
「よろしゅうございます」と、同じような、冷ややかな調子で答えたが、少し間《ま》を置いて、何か心に浮かんだらしく、「お上《かみ》の事には間違いはございますまいから」と言い足した。
 佐佐の顔には、不意打ちに会ったような、驚愕《きょうがく》の色が見えたが、それはすぐに消えて、険しくなった目が、いちの面《おもて》に注がれた。憎悪《ぞうお》を
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