帯びた驚異の目とでも言おうか。しかし佐佐は何も言わなかった。
 次いで佐佐は何やら取調役《とりしらべやく》にささやいたが、まもなく取調役が町年寄《まちどしより》に、「御用が済んだから、引き取れ」と言い渡した。
 白州《しらす》を下がる子供らを見送って佐佐は太田と稲垣とに向いて、「生先《おいさき》の恐ろしいものでござりますな」と言った。心の中には、哀れな孝行娘の影も残らず、人に教唆《きょうさ》せられた、おろかな子供の影も残らず、ただ氷のように冷ややかに、刃《やいば》のように鋭い、いちの最後のことばの最後の一句が反響しているのである。元文ごろの徳川家の役人は、もとより「マルチリウム」という洋語も知らず、また当時の辞書には献身という訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女《ろうにゃくなんにょ》の別なく、罪人太郎兵衛の娘に現われたような作用があることを、知らなかったのは無理もない。しかし献身のうちに潜む反抗の鋒《ほこさき》は、いちとことばを交えた佐佐のみではなく、書院にいた役人一同の胸をも刺した。
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 城代《じょうだい》も両奉行もいちを「変な小
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