りよは始終黙って人の話を聞いていたが、願書に自分の名を書き入れて貰うことだけは、きっと居直って要求した。りよは十人並の容貌《ようぼう》で、筋肉の引き締まった小女《こおんな》である。未亡人は頭痛持でこんな席へは稀《まれ》にしか出て来ぬが、出て来ると、若《も》し返討《かえりうち》などに逢《あ》いはすまいかと云う心配ばかりして、果《はて》はどうしてこんな災難に遇ったことかと繰り返してくどくのであった。日が窪から来る原田夫婦や、未亡人の実弟桜井|須磨右衛門《すまえもん》は、いつもそれを慰めようとして骨を折った。
 然るにここに親戚一同がひどく頼みに思っている男が一人いる。この男は本国姫路にいるので、こう云う席には列することが出来なかったが、訃音《ふいん》に接するや否や、弔慰《くやみ》の状をよこして、敵討にはきっと助太刀をすると誓ったのである。姫路ではこの男は家老本多|意気揚《いきり》に仕えている。名は山本九郎右衛門と云って当年四十五歳になる。亡くなった三右衛門がためには、九つ違の実弟である。
 九郎右衛門は兄の訃音を得た時、すぐに主人意気揚に願書を出した。甥《おい》、女姪《めい》が敵討をするか
前へ 次へ
全54ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング