、格式相当の葬儀|可取行《とりおこなふべし》」と云うのである。三右衛門の創《きず》を受けた現場にあった、癖者の刀は、役人の手で元の持主五瀬某に見せられた。
 二十八日に三右衛門の遺骸《いがい》は、山本家の菩提所《ぼだいしょ》浅草堂前の遍立寺《へんりゅうじ》に葬られた。葬《とむらい》を出す前に、神戸方で三右衛門が遭難当時に持っていた物の始末をした時、大小も当然伜宇平が持って帰る筈であったが、娘りよは切に請うて脇差を譲り受けた。そして宇平がそれを承諾すると、泣き腫《は》らしていた、りよの目が、刹那《せつな》の間|喜《よろこび》にかがやいた。

 侍が親を殺害《せつがい》せられた場合には、敵討《かたきうち》をしなくてはならない。ましてや三右衛門が遺族に取っては、その敵討が故人の遺言になっている。そこで親族打ち寄って、度々評議を凝《こ》らした末、翌天保五年|甲午《きのえうま》の歳の正月中旬に、表向敵討の願をした。
 評議の席で一番熱心に復讐《ふくしゅう》がしたいと言い続けて、成功を急いで気を苛《いら》ったのは宇平であった。色の蒼《あお》い、瘠《や》せた、骨細の若者ではあるが、病身ではない。姉の
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