九郎右衛門はこれだけ聞いて、手早く懐中から早縄を出して、男を縛った。そして文吉に言った。「もうここは好いから、お茶ノ水の酒井亀之進様のお邸へ往ってくれ。口上はこうだ。手前は御当家のお奥に勤めているりよの宿許《やどもと》から参りました。母親が霍乱《かくらん》で夜明《よあけ》まで持つまいと申すことでござります。どうぞ格別の思召《おぼしめし》でお暇を下さって、一目お逢わせ下さるようにと、そう云うのだ。急げ」
「は」と云って、文吉は錦町《にしきちょう》の方角へ駆け出した。

 酒井亀之進の邸では、今宵《こよい》奥のひけが遅くて、りよはようよう部屋に帰って、寝巻に着換えようとしている所であった。そこへ老女の使が呼びに来た。
 りよは着換えぬうちで好かったと思いながら、すぐに起って上草履《うわぞうり》を穿《は》いて、廊下|伝《づたい》に老女の部屋へ往った。
 老女は云った。「お前の宿から使が来ているがね、母親が急病だと云うことだ。盆ではあり、御多用の所だが、親の病気は格別だから、帰ってお出《いで》。親御に逢ったら、夜でもすぐにお邸へ戻るのだよ。あすになってから、又改めてお暇を願って遣るから」

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