文吉はそれを扶《たす》ける振《ふり》をして附いて行く。
神田橋外|元護寺院《もとごじいん》二番原に来た時は丁度|子《ね》の刻頃であった。往来はもう全く絶えている。九郎右衛門が文吉に目ぐわせをした。二つの体を一つの意志で働かすように二人は背後《うしろ》から目ざす男に飛び着いて、黙って両腕をしっかり攫《つか》んだ。
「何をしやあがる」と叫んだ男は、振り放そうと身をもがいた。
無言の二人は釘抜《くぎぬき》で釘を挟んだように腕を攫んだまま、もがく男を道傍《みちばた》の立木の蔭へ、引き摩《ず》って往った。
九郎右衛門は強烈な火を節光板で遮ったような声で云った。「己はおとどしの暮お主《ぬし》に討たれた山本三右衛門の弟九郎右衛門だ。国所《くにところ》と名前を言って、覚悟をせい」
「そりゃあ人違だ。おいらあ泉州産《せんしゅううまれ》で、虎蔵と云うものだ。そんな事をした覚《おぼえ》はねえ」
文吉が顔を覗《のぞ》き込んだ。「おい。亀。目の下の黒痣《ほくろ》まで知っている己がいる。そんなしらを切るな」
男は文吉の顔を見て、草葉が霜に萎《しお》れるように、がくりと首を低《た》れた。「ああ。文公か」
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