難有《ありがと》うございます」と、りよはお請《うけ》をして、老女の部屋をすべり出た。
 りよはこのまま往っても好いと考えながら、使とは誰が来たのかと、奥の口へ覗きに出た。御用を勤める時の支度で、木綿中形の単物に黒繻子《くろじゅす》の帯を締めていたのである。奥の口でりよは旅支度の文吉と顔を見合せた。そして親の病気が口実だと云うことを悟った。
 りよと一しょに奥を下がった傍輩《ほうばい》が二三人、物珍らしげに廊下に集まって、りよが宿の使に逢うのを見ようとしている。
「ちょいと忘物をいたしましたから」と、りよは独言《ひとりごと》のように云って、足を早めて部屋へ引き返した。
 部屋の戸を内から締めたりよは、葛籠《つづら》の蓋《ふた》を開けた。先ず取り出したのは着換の帷子《かたびら》一枚である。次に臂《ひじ》をずっと底までさし入れて、短刀を一本取り出した。当番の夜父三右衛門が持っていた脇差である。りよは二品を手早く袱紗《ふくさ》に包んで持って出た。

 文吉は敵を掴まえた顛末《てんまつ》を、途中でりよに話しながら、護持院原《ごじいんがはら》へ来た。
 りよは九郎右衛門に挨拶して、着換をする余裕は
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