かどいや》の戸の締っている外でしゃがんでいると、そこへ駆け込んだ奴《やつ》がある。見れば、あの酒井様にいた亀じゃあねえか。己はびっくりしたよ。好くずうずうしく帰って来やがったと思いながら、おい、亀と声を掛けたのだ。すると、えと云って振り向いたが、人違《ひとちがえ》をしなさんな、おいらあ虎《とら》と云うもんだと云っといて、まだ雨がどしどし降っているのに、駆け出して行ってしまやがった」
 今一人が云った。「じゃあ又帰っていやがるのだ。太《ふて》え奴だなあ」
 須磨右衛門は二人に声を掛けて、その亀と云う男は何者だと問うた。二人は侍に糺《ただ》されるのをひどく当惑がる様子であったが、おとどしの暮に大手の酒井様のお邸で悪い事をして逃げた仲間《ちゅうげん》の亀蔵の事だと云った。そして最後に「なに、ちょいと見たのですから、全く人違で、本当に虎と云うものだったかも知れません」と詞を濁した。只見掛けたと云うだけのこの二人を取り押さえても、別に役に立ちそうではなく、又荒立てて亀蔵に江戸を逃げられてはならぬと思って、須磨右衛門は穏便に二人を立ち去らせた。
 大阪で九郎右衛門が受け取ったのは、桜井から亀蔵の江
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