いられなかった。
敵討の一行が立った跡で、故人三右衛門の未亡人は、里方桜井須磨右衛門の家で持病の直るのを待った。暫くすると難儀に遭《あ》ってから時が立ったのと、四方《あたり》が静になったのとのために、頭痛が余程軽くなった。実弟須磨右衛門は親切にはしてくれるが、世話にばかりなってもいにくいので、未亡人は余り忙《せわ》しくない奉公口をと云って捜して、とうとう小川町|俎橋際《まないたばしぎわ》の高家衆《こうけしゅう》大沢|右京大夫基昭《うきょうたいふもとあき》が奥に使われることになった。
宇平の姉りよは叔母婿原田方に引き取られてから、墓参の時などには、樒《しきみ》を売る媼《うば》の世間話にも耳を傾けて、敵のありかを聞き出そうとしていたが、いつか忌《いみ》も明けた。そこで所々《しょしょ》に一二箇月ずつ奉公していたら、自然手掛りを得るたつきにもなろうと思い立って、最初は本所の或る家に住み込んだ。これは遠い親戚に当るので、奉公人やら客分やら分からぬ待遇を受けて、万事の手伝をしたのである。次に赤坂の堀と云う家の奥に、大小母《おおおば》が勤めていたので、そこへ手伝に往った。次に麻布《あざぶ》の或
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