江戸だが、いかに亀蔵が横着でも、うかと江戸には戻っていまい。成程我々が敵討に余所《よそ》へ出たと云うことは、噂に聞いたかも知れぬが、それにしても外の親戚も気を附けているのだから、どうも江戸に戻っていそうにない。お前は神主に一杯食わされたのじゃないか。後の尋人が知れぬと云うのも、お初穂がもう一度貰いたいのかも知れん」
文吉はひどく勿体《もったい》ながって、九郎右衛門の詞を遮《さえぎ》るようにして、どうぞそう云わずに御託宣を信ずる気になって貰いたいと頼んだ。
九郎右衛門は云った。「いや。己は稲荷様を疑いはせぬ。只どうも江戸ではなさそうに思うのだ」
こう云っている所へ、木賃宿の亭主が来た。今|家主《いえぬし》の所へ呼ばれて江戸から来た手紙を貰ったら、山本様へのお手紙であったと云って、一封の書状を出した。九郎右衛門が手に受け取って、「山本宇平殿、同《おなじく》九郎右衛門殿、桜井須磨右衛門、平安」と読んだ時、木賃宿でも主従の礼儀を守る文吉ではあるが、兼て聞き知っていた後室《こうしつ》の里からの手紙は、なんの用事かと気が急《せ》いて、九郎右衛門が披《ひら》く手紙の上に、乗り出すようにせずには
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