宇平がこれきりいなくなろうとは、叔父は思わなかった。

 夕方に文吉が帰ったので、九郎右衛門は近所へ往って宇平を尋ねて来いと云った。宇平は折々町の若い者の象棋《しょうぎ》をさしている所などへ往った。最初は敵の手掛りを聞き出そうとして、雑談に耳を傾けていたのだが、後には只何となしにそこで話していたのである。文吉はそう云う家を尋ねた。しかしどこにもいなかった。その晩には遅くなるまで九郎右衛門が起きていて、宇平の帰るのを待ったが、とうとう帰らなかった。
 文吉は宇平を尋ねて歩いた序《ついで》に、ふと玉造豊空稲荷《たまつくりほうくういなり》の霊験《れいげん》の話を聞いた。どこの誰《たれ》の親の病気が直ったとか、どこの誰は迷子の居所を知らせて貰ったとか、若い者共が評判し合っていたのである。文吉は九郎右衛門にことわって、翌日行水して身を潔《きよ》めて、玉造をさして出て行った。敵のありかと宇平の行方とを伺って見ようと思ったのである。
 稲荷《いなり》の社《やしろ》の前に来て見れば、大勢の人が出入《でいり》している。数えられぬ程多く立ててある、赤い鳥居が重なり合っていて、群集はその赤い洞《ほら》の中で
前へ 次へ
全54ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング