目は大きく開いて、眉が高く挙がったが、見る見る蒼ざめた顔に血が升《のぼ》って、拳《こぶし》が固く握られた。
「ふん。そんなら敵討は罷《やめ》にするのか」
宇平は軽く微笑《ほほえ》んだ。おこったことのない叔父をおこらせたのに満足したらしい。「そうじゃありません。亀蔵は憎い奴ですから、若し出合ったら、ひどい目に逢わせて遣ります。だが捜すのも待つのも駄目ですから、出合うまではあいつの事なんか考えずにいます。わたしは晴がましい敵討をしようとは思いませんから、助太刀もいりません。敵が知れれば知れる時知れるのですから、見識人《みしりにん》もいりません。文吉はこれからあなたの家来にしてお使下さいまし。わたしは近い内にお暇をいたす積です」
九郎右衛門が怒は発するや否や忽《たちま》ち解けて、宇平のこの詞《ことば》を聞いている間に、いつもの優《やさ》しいおじさんになっていた。只何事をも強《し》いて笑談《じょうだん》に取りなす癖のおじが、珍らしく生真面目《きまじめ》になっていただけである。
宇平が席を起って、木賃宿の縁側を降りる時、叔父は「おい、待て」と声を掛けたが、宇平の姿はもう見えなかった。しかし
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