のです」
「なんでも好いから、そう云え」
「おじさん。あなたはいつ敵に逢えると思っていますか」
「それはお前にも分かるまいが、己《おれ》にも分からんのう」
「そうでしょう。蜘蛛《くも》は網《い》を張って虫の掛かるのを待っています。あれはどの虫でも好いのだから、平気で待っているのです。若し一匹の極《き》まった虫を取ろうとするのだと、蜘蛛の網は役に立ちますまい。わたしはこうして僥倖《ぎょうこう》を当にしていつまでも待つのが厭《いや》になりました」
「随分己もお前も方々歩いて見たじゃないか」
「ええ。それは歩くには歩きましたが」と云い掛けて、宇平は黙った。
「はてな。歩くには歩いたが、何が悪かったと云うのか。構わんから言え」
 宇平はやはり黙って、叔父の顔をじっと見ていたが、暫くして云った。「おじさん。わたし共は随分歩くには歩きました。しかし歩いたってこれは見附からないのが当前《あたりまえ》かも知れません。じっとして網を張っていたって、来て掛かりっこはありませんが、歩いていたって、打《ぶ》っ附《つ》からないかも知れません。それを先へ先へと考えてみますと、どうも妙です。わたしは変な心持がしてな
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