奮しているために、瑣細《ささい》な事にも腹を立てる。又何事もないと、わざわざ人を挑《いど》んで詞尻《ことばじり》を取って、怒《いかり》の動機を作る。さて怒が生じたところで、それをあらわに発動させずに、口小言を言って拗《す》ねている。
こう云う状態が二三日続いた時、文吉は九郎右衛門に言った。「若檀那《わかだんな》の御様子はどうも変じゃございませんか」文吉は宇平の事を、いつか若檀那と云うことになっていた。
九郎右衛門は気にも掛けぬらしく笑って云った。「若殿か。あの御機嫌の悪いのは、旨《うま》い物でも食わせると直るのだ」
九郎右衛門のこう云ったのも無理はない。三人は日ごとに顔を見合っていて気が附かぬが、困窮と病痾《びょうあ》と羇旅《きりょ》との三つの苦艱《くげん》を嘗《な》め尽して、どれもどれも江戸を立った日の俤《おもかげ》はなくなっているのである。
文吉がこの話をした翌日の朝であった。相宿《あいやど》のものがそれぞれ稼《かせぎ》に出た跡で、宇平は九郎右衛門の前に膝《ひざ》を進めて、何か言い出しそうにして又黙ってしまった。
「どうしたのだい」と叔父が云った。
「実は少し考えた事がある
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