、もはや是非に及ばない。只運を天に任せて、名告《なの》り合う日を待つより外はない。お前は忠実この上もない人であるから、これから主取《しゅうどり》をしたら、どんな立身も出来よう。どうぞここで別れてくれと云うのであった。
九郎右衛門は兼て宇平に相談して置いて、文吉を呼んでこの申渡《もうしわたし》をした。宇平は側《そば》で腕組をして聞いていたが、涙は頬を伝って流れていた。
黙って衝《つ》っ伏《ぷ》して聞いていた文吉は、詞の切れるのを待って、頭を擡《もた》げた。※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った目は異様に赫《かがや》いている。そして一声「檀那《だんな》、それは違います」と叫んだ。心は激して詞はしどろであったが、文吉は大凡《おおよそ》こんなことを言った。この度《たび》の奉公は当前《あたりまえ》の奉公ではない。敵討の供に立つからは、命はないものである。お二人が首尾好く本意を遂げられれば好し、万一敵に多勢の悪者でも荷担して、返討《かえりうち》にでも逢われれば、一しょに討たれるか、その場を逃れて、二重の仇《あだ》を討つかの二つより外ない。足腰の立つ間は、よしやお暇が出ても、影の
前へ
次へ
全54ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング