ら、自分は留守を伜健蔵に委《まか》せて置いて、助太刀に出たいと云うのである。主人本多意気揚は徳川家康が酒井家に附けた意気揚の子孫で、武士道に心入《こころいれ》の深い人なので、すぐに九郎右衛門の願を聞き届けた。江戸ではまだ敵討の願を出したばかりで、上《かみ》からそんな沙汰もないうちに、九郎右衛門は意気揚から拵附《こしらえつき》の刀|一腰《ひとこし》と、手当金二十両とを貰って、姫路を立った。それが正月二十三日の事である。
 二月五日に九郎右衛門は江戸蠣殻町の中邸にある山本宇平が宅に着いた。宇平を始《はじめ》、細川家から暇《いとま》を取って帰っていた姉のりよが喜《よろこび》は譬《たと》えようがない。沈着で口数をきかぬ、筋骨|逞《たくま》しい叔父《おじ》を見たばかりで、姉も弟も安堵《あんど》の思をしたのである。
「まだこっちではお許は出んかい」と、九郎右衛門は宇平に問うた。
「はい。まだなんの御沙汰もございません。お役人方に伺いましたが、多分忌中だから御沙汰がないのだろうと申すことで」
 九郎右衛門は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。暫《しばら》くして、「大きい車は廻りが遅いのう」と云った。
 それから九郎右衛門は、旅の支度が出来たかと問うた。いずれお許が出てからと、宇平が云った。叔父の眉間には又皺が寄った。しかし今度は長い間なんとも言わなかった。外の話を色々した後で、叔父は思い出したように云った。「あの支度はのう、先へして置いても好いぞよ」
 六日には九郎右衛門が兄の墓参をした。七日には浜町の神戸方へ、兄が末期《まつご》に世話になった礼に往った。西北の風の強い日で、丁度九郎右衛門が神戸の家にいるうちに、神田から火事が始まった。歴史に残っている午年《うまどし》の大火である。未《ひつじ》の刻に佐久間町《さくまちょう》二丁目の琴三味線師の家から出火して、日本橋方面へ焼けひろがり、翌朝卯の刻まで焼けた。「八つ時分三味線屋からことを出し火の手がちりてとんだ大火事」と云う落首があった。浜町も蠣殻町も風下《かざした》で、火の手は三つに分かれて焼けて来るのを見て、神戸の内は人出も多いからと云って、九郎右衛門は蠣殻町へ飛んで帰った。
 山本の内では九郎右衛門が指図をして、荷物は残らず出させたが、申《さる》の下刻には中邸一面が火になって、山本も焼けた。
 りよは火事が始まるとすぐ、旧主人の細川家の邸をさして駆けて行ったが、もう豊島町は火になっていた。「あぶないあぶない」「姉さん火の中へ逃げちゃあいけねえ」などと云うものがある。とうとう避難者や弥次馬《やじうま》共の間に挟《はさ》まれて、身動《みうごき》もならぬようになる。頭の上へは火の子がばらばら落ちて来る。りよは涙ぐんで亀井町の手前から引き返してしまった。内へはもう叔父が浜町から帰って、荷物を片附けていた。
 浜町も矢の倉に近い方は大部分焼けたが、幸《さいわい》に酒井家の添邸は焼け残った。神戸家へ重々《かさねがさね》世話になるのは気の毒だと云うので、宇平一家はやはり遠い親戚に当る、添邸の山本平作方へ、八日の辰《たつ》の刻過に避難した。

 三右衛門が遺族は山本平作方の部屋を借りて、夢の中で夢を見るような心持になって、ぼんやりしている。未亡人は頭痛が起って寝たきりである。宇平は腕組をして何やら考え込む。只《ただ》りよ一人平作の家族に気兼《きがね》をしながら、甲斐々々《かいがい》しく立ち働いていたが、午頃《ひるごろ》になって細川の奥方の立退所《たちのきじょ》が知れたので、すぐに見舞に往った。
 晩にりよが帰ると九郎右衛門が云った。「おい。もう当分我々は家なんぞはいらんが、若殿が旅に出て風を引かぬように、支度だけはして遣《や》らんではならんぞ」叔父は宇平を若殿々々と呼んで揶揄《からか》っているのである。
「はい」と云ったりよは、その晩から宇平の衣類に手を着けた。
 九日にはりよが旅支度にいる物を買いに出た。九郎右衛門が書附にして渡したのである。きょうは風が南に変って、珍らしく暖いと思っていると、酉《とり》の上刻に又|檜物町《ひものちょう》から出火した。おとつい焼け残った町家《まちや》が、又この火事で焼けた。
 十日には又寒い西北の風が強く吹いていると、正午に大名小路《だいみょうこうじ》の松平伯耆守宗発《まつだいらほうきのかみむねあきら》の上邸から出火して、京橋方面から芝口へ掛けて焼けた。
 続いて十一日にも十二日にも火事がある。物価の高いのに、災難が引き続いてあるので、江戸中人心|恟々《きょうきょう》としている。山本方で商人に注文した、少しばかりの品物にも、思い掛けぬ手違《てちがえ》が出来て、りよが幾ら気を揉《も》んでも、支度がなかなかはかどらない。
 或る日九郎右衛門は烟草《たばこ》を飲みながら、りよの
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