護持院原の敵討
森鴎外

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)播磨国《はりまのくに》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)城主酒井|雅楽頭忠実《うたのかみただみつ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。
−−

 播磨国《はりまのくに》飾東郡《しきとうごおり》姫路《ひめじ》の城主酒井|雅楽頭忠実《うたのかみただみつ》の上邸《かみやしき》は、江戸城の大手向左角にあった。そこの金部屋《かねべや》には、いつも侍《さむらい》が二人ずつ泊ることになっていた。然《しか》るに天保《てんぽう》四年|癸《みずのと》巳《み》の歳《とし》十二月二十六日の卯《う》の刻|過《すぎ》の事である。当年五十五歳になる、大金奉行《おおかねぶぎょう》山本|三右衛門《さんえもん》と云う老人が、唯《ただ》一人すわっている。ゆうべ一しょに泊る筈《はず》の小金《こがね》奉行が病気|引《びき》をしたので、寂しい夜寒《よさむ》を一人で凌《しの》いだのである。傍《そば》には骨の太い、がっしりした行燈《あんどう》がある。燈心に花が咲いて薄暗くなった、橙黄色《だいだいいろ》の火が、黎明《しののめ》の窓の明りと、等分に部屋を領している。夜具はもう夜具|葛籠《つづら》にしまってある。
 障子の外に人のけはいがした。「申し。お宅から急用のお手紙が参りました」
「お前は誰《たれ》だい」
「お表の小使でございます」
 三右衛門は内から障子をあけた。手紙を持って来たのは、名は知らぬが、見識《みし》った顔の小使で、二十《はたち》になるかならぬの若者である。
 受け取った封書を持って、行燈の前にすわった三右衛門は、先《ま》ず燈心の花を落して掻《か》き立てた。そして懐《ふところ》から鼻紙袋を出して、その中の眼鏡《めがね》を取って懸《か》けた。さて上書を改めたが、伜《せがれ》宇平の手でもなければ、女房《にょうぼう》の手でもない。ちょいと首を傾けたが、宛名には相違がないので、とにかく封を切った。手紙を引き出して披《ひら》き掛けて、三右衛門は驚いた。中は白紙である。
 はっと思ったとたんに、頭を強く打たれた。又驚く間もなく、白紙の上に血がたらたらと落ちた。背後《うしろ》から一刀浴せられたのである。
 夜具葛籠の前に置いてあった脇差《わきざし》を、手探りに取ろうとする所へ、もう二の太刀《たち》を打ち卸して来る。無意識に右の手を挙げて受ける。手首がばったり切り落された。起ち上がって、左の手でむなぐらに掴《つか》み着いた。
 相手は存外|卑怯《ひきょう》な奴《やつ》であった。むなぐらを振り放し科《しな》に、持っていた白刃《しらは》を三右衛門に投げ付けて、廊下へ逃げ出した。
 三右衛門は思慮の遑《いとま》もなく跡を追った。中の口まで出たが、もう相手の行方《ゆくえ》が知れない。痛手を負った老人の足は、壮年の癖者《くせもの》に及ばなかったのである。
 三右衛門は灼《や》けるような痛《いたみ》を頭と手とに覚えて、眩暈《めまい》が萌《きざ》して来た。それでも自分で自分を励まして、金部屋《かねべや》へ引き返して、何より先に金箱の錠前を改めた。なんの異状もない。「先ず好かった」と思った時、眩暈が強く起こったので、左の手で夜具葛籠を引き寄せて、それに靠《よ》り掛かった。そして深い緩《ゆる》い息を衝《つ》いていた。

 物音を聞き附けて、最初に駆け附けたのは、泊番の徒目附《かちめつけ》であった。次いで目附が来る。大目附が来る。本締《もとじめ》が来る。医師を呼びに遣《や》る。三右衛門の妻子のいる蠣殻町《かきがらちょう》の中邸《なかやしき》へ使が走って行く。
 三右衛門は精神が慥《たしか》で、役人等に問われて、はっきりした返事をした。自分には意趣遺恨を受ける覚《おぼえ》は無い。白紙の手紙を持って来て切って掛かった男は、顔を知って名を知らぬ表小使である。多分金銀に望《のぞみ》を繋《か》けたものであろう。家督相続の事を宜《よろ》しく頼む。敵《かたき》を討ってくれるように、伜に言って貰《もら》いたいと云うのである。その間三右衛門は「残念だ、残念だ」と度々《たびたび》繰り返して云った。
 現場《げんば》に落ちていた刀は、二三日前作事の方に勤めていた五瀬某が、詰所《つめしょ》に掛けて置いたのを盗まれた品であった。門番を調べてみれば、卯刻《うのこく》過に表小使|亀蔵《かめぞう》と云うものが、急用のお使だと云って通用門を出たと云うことである。亀蔵は神田久右衛門町《かんだきゅうえもんちょう》代地の仲間口入宿《ちゅうげんくちいれやど》富士屋治三
次へ
全14ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング